カール1世 (最後のオーストリア皇帝)

カール1世は、ハプスブルク家最後の皇帝として第一次世界大戦下の帝国を統治した。

戦火を収めようと和平交渉に奔走したが、時代の大波には抗えず、帝国の解体とともに退位。短くも波乱に満ちた治世は、ハプスブルク家650年の歴史に終止符を打った。

基本情報

称号 オーストリア皇帝
ハンガリー王
ボヘミア王
ダルマチア王
クロアチア王
スラヴォニア国王
ガリツィア=ロドメリア国王
出生 1887年8月17日(ペルゼンボイク城)
死去
1922年4月1日(マデイラ島、ポルトガル)
享年 34
治世
1916年〜1918年(オーストリア皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王)
伴侶 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
子女 オットー (皇太子)
アーデルハイト
ローベルト
フェリックス
カール・ルートヴィヒ
ルドルフ
シャルロッテ
エリーザベト
父親 オットー・フランツ
母親 マリア・アンヌンツィアータ
前任者 フランツ・ヨーゼフ1世
後継者予定 王位廃止のため不在

人物の背景

カール1世は、ハプスブルク家傍系のオットー・フランツの子として生まれた。

皇位継承順位では当初遠い存在だったが、フランツ・フェルディナント大公の暗殺(サライェヴォ事件)によって皇位継承者に急浮上。1916年、伯父フランツ・ヨーゼフ1世の崩御を受けて即位し、若き皇帝として帝国を率いた。

カール1世の家系図 (フランツ・ヨーゼフからの推移) (家系図)

治世で起きた主要な出来事

即位後まもなく、戦局悪化を受けて単独講和を模索。密かに交渉を試みたが、列強間の利害が複雑に絡み合い、実現には至らなかった。

  • 多民族帝国の解体(1918)

民族自決の波により、帝国各地で独立運動が噴出。民族連邦化を目指すも間に合わず、次々と離反を許し、帝国は崩壊した。

  • 王位放棄と亡命(1918〜1922)

1918年11月、オーストリア共和国の成立とともに帝位を放棄。ハンガリーでは復位運動を試みるも失敗し、ポルトガルのマデイラ島に幽閉のような形で移住。貧窮の末、若くして病没した。

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