一直線に崩れ落ちる帝国。その流れに逃げ場を探しながら立ち向かったのが、華やかな英雄ではなく、非常に人間味あふれる青年皇帝であった。
(カール1世の写真)
カール1世――崩壊へと向かう王朝と、孤独な戦いを続けた最後の皇帝である。
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この記事のポイント
- フランツ・ヨーゼフ死去、1916年、カール1世が戦争下のハプスブルク帝国を継承する
- 和平交渉と民族融和を試みるも、帝国の崩壊は止められなかった
- 1918年、国事関与を断念し、オーストリア共和国が誕生する
崩壊する帝国
1848年、革命の嵐の中で若きフランツ・ヨーゼフが即位したとき、ハプスブルク帝国はまだ中欧の盟主だった。
だがイタリア、ドイツでの敗北を経て、帝国は多民族国家へと変容し、内部の緊張を抱えたまま時代を迎えることとなった。
その末裔カール1世が即位した1916年、帝国は「第一次世界大戦」のただ中にあった。
戦争の泥沼、民族対立、そして世界の潮流。すべてがハプスブルク帝国を押し流そうとしていた。 カールはなお帝国の維持を目指し、必死に抗ったのである。
理想主義と改革―
即位当初、カールは自由主義的な理想を掲げ、平和と民族融和を目指す改革を試みた。内政では連邦制の構想を描き、外交では秘密裏に講和を模索した
――いわゆる”シクステュス計画”である。
これは義兄弟を通じてフランスと講和を結ぼうという大胆な構想だったが、ドイツに露見し、信頼を大きく損なう結果となった。
(シクステュス計画)
若き皇帝の挑戦
その一方、帝国内ではチェコやクロアチア、ポーランドといった諸民族が独立を求めて蜂起し、軍部はカールの「譲歩政策」に反発を強めていた。
前皇帝が「秩序と沈黙」によって帝国を維持したのに対し、カールは「対話と譲歩」によって多民族国家を救おうとした。
しかし、それはもはや時代の潮流には抗えなかった。
退位か否か――決断の瞬間
1918年10月、カールはオーストリアを構成する諸民族に自治を与える連邦化宣言を出した。
だが時すでに遅し、民族主義の奔流はもはや誰にも止められなかった。アメリカのウィルソン大統領が掲げた「民族自決」が追い風となり、各地で共和国の樹立が相次いだ。
そして11月11日、カール1世は「帝位を放棄しないが、政治への関与を停止する」と発表。これは退位とは呼べぬ曖昧な文書だったが、実質的には皇帝の座からの退場だった。
翌日、オーストリア共和国の成立が宣言され、ハプスブルクの歴史は終焉を迎えた。
(終焉の流れ)
ハンガリーへの望みと二度の失敗
しかしカールは、まだハンガリー王としての復位に希望を抱いていた。
ハプスブルク家はオーストリアとハンガリーの「二重帝国」の王であったが、形式上それぞれの国家元首だったため、彼はハンガリーでの王位復帰を試みたのである。
1921年、カールは二度にわたりハンガリーへの帰還を図り、復位を求めて武装蜂起するが、いずれも失敗。
とくに第二次蜂起では、ブダペストに迫るも摂政ホルティの支持を得られず、逮捕・拘束されてしまう。これによりカールは完全に政治的影響力を失い、列強によって遠方への亡命を命じられることとなる。
ハプスブルク法と家族の分断
こうしてカールは家族とともにスイスを経て、大西洋の孤島マデイラへと流された。
(カール1世とその家族)
元皇帝に対して新政府が施行した「ハプスブルク法」により、彼の一族はすべての財産と市民権を剥奪され、帝国とのいかなる政治的関与も禁じられた。
一方で、一部の家族は中欧にとどまり、以降の亡命王族の運命を分ける結果ともなる。
カールの妻ツィタは子どもたちとともに各地を転々とし、その長男オットー・フォン・ハプスブルクは後年、欧州議会議員として活躍するなど、家族の一部は「亡命後の時代」に適応していくことになる。
ツィタを中心とする亡命皇族にとって、故郷オーストリアは「遠きにありて思うもの」となった。
まとめ
滅びゆく帝国を前に、最後まで抗った若き皇帝。だが、歴史の奔流はあまりに大きかった。
カール1世の手からは、国も、民も、希望さえも零れ落ちていった。彼が守ろうとしたハプスブルクの栄光は、もはや誰にも必要とされていなかったのである。
それでもなお、最後の皇帝は、誇り高く立ち続けた。敗者であり、孤独な証人であり、そして静かに消えゆく時代の生きた証だった。
ハプスブルク帝国は滅びた。
だが、あの絶望のなかでなお手を伸ばした皇帝の姿は、今も静かに語りかけてくる。「たとえ時代に裏切られても、信じたものを手放すな」と。
そして、その血脈はなお絶えていない。戴冠こそなきものの、ハプスブルクの末裔は今も生きている。遥かな記憶を宿すその名は、かつての帝国の影を、現代にそっと映し出している。
さらに詳しく:
📖 巨大王朝ハプスブルク家の末裔は今 | 平和な帝国終焉、一族の現在
📖 ハプスブルク家の家系図でたどる、650年の王朝史
📖 図解ハプスブルク|年表でみる王朝の盛衰
参考文献
- 『ハプスブルクとEU』(翠場久美子)
- 『歴史を刺す大地~オーストリア・ハプスブルクの遷移と自立』(内田静父)
- “Otto von Habsburg and the End of the Monarchy” (Journal of Modern History)
- 『ハプスブルク帝国 800年の歴史』(講談社現代新書)
- 『物語 オーストリアの歴史』(中公新書)
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