それは一枚の紙切れから始まった。
「国事詔書」と名づけられたその布告は、皇帝カール6世の娘、マリア・テレジアへの王位継承を保証するはずだった。
だが、父の死後、それは裏切りと欲望の連鎖を招き、ヨーロッパを再び戦乱へと巻き込む。バイエルン、フランス、そして若きプロイセン王――継承をめぐる戦いが、帝国の未来を切り裂いた。
この記事のポイント
- 1740年、カール6世の死で国事詔書による継承危機が発生
- フリードリヒ2世の「シレジア侵攻」が戦争の火蓋を切る
- ハンガリーの支持で巻き返し、帝位はマリアの夫フランツへと戻った
「国事詔書」が引き起こした継承の混乱
1740年10月20日、皇帝カール6世が狩猟中に急死する。
男子なき帝位は、かねてから準備された「国事詔書」に基づき、娘マリア・テレジアに継がれるはずだった。だが、紙の上で結ばれたはずの約束は、各国の利害の前にあまりにも脆かった。
最初に牙を剥いたのはバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト。皇帝の姪の夫である彼は、男子後継者不在を理由にハプスブルク領の継承を主張。
フランスの後ろ盾を求めたが、フランスは静観を決め込んでいた。その隙を突いたのが、若きプロイセン王フリードリヒ2世だった。
(フリードリヒ2世)
プロイセンの野心と第一次シレジア戦争
即位したばかりのフリードリヒは、カール6世の死を待ち構えていたかのように動いた。
標的は、ボヘミア北部の肥沃な地、シレジア。戦備は万端、軍資金も潤沢。マリア・テレジアに使者を送り、支援と引き換えにシレジアを求めるが、その使者が到着する前に軍は動き出していた。
こうして「第一次シレジア戦争」が始まる。プロイセンは電撃的に進軍し、モルヴィッツの戦いではマリアの軍が敗北。情勢は一変し、ここでようやくフランスが動き出す。
ヨーロッパの分裂と帝国の解体危機
フランス、バイエルン、ザクセン、スペインがこぞって参戦し、ヨーロッパは再び四つの戦線に引き裂かれる。オーストリア、チェコ、イタリア、ベルギー、帝国の各地が燃え上がった。
カール・アルブレヒトは皇帝に選出され(カール7世)、ハプスブルク家は1438年以来続いた皇帝位を奪われる。マリア・テレジアはウィーンからの退避を余儀なくされ、ハプスブルク家は存亡の淵に立たされる。
ハンガリーの奇跡と巻き返しの始まり
しかし、ここで一つの奇跡が起こる。マリア・テレジアはハンガリー議会を自ら訪れ、涙ながらに訴える。

この命、この子供たち、そして祖国を、あなた方に託します
諸身分はこれに心打たれ、支持を約す。
このハンガリーからの支援により、マリアは軍を再編し、国内の統治を立て直す。軍の主力をハンガリーから動員できたことで、巻き返しが始まった。
皇帝の椅子、再びハプスブルクへ
イギリスの仲介でマリアはプロイセンと一時講和を結び、東部戦線を手仕舞いにすると、ボヘミア・バイエルン方面へ矛先を向ける。
ついに皇帝カール7世がミュンヘンで戴冠したその日に、マリアの軍がミュンヘンを陥落させる。イタリアでもスペイン軍を撃退し、帝国の面目を保った。
そしてカール7世が没すると、マリアの夫フランツ・シュテファンが皇帝に選出され(フランツ1世)、皇帝位はハプスブルク=ロートリンゲン家に戻る。
まとめ
(オーストリア継承戦争図解)
「紙切れ一枚では帝国は守れない」
それはマリア・テレジアの痛切な体験だった。国事詔書が引き裂いたヨーロッパは、彼女の意志と交渉と献身によって、かろうじて繋ぎ止められた。
オーストリア継承戦争は、ハプスブルク帝国にとって生き残りを懸けた試練であり、同時に女帝マリア・テレジアが真の「女帝」となるための通過儀礼でもあった。彼女の戦いは、この戦争の終結とともに、ようやく始まったのだった。
さらに詳しく:
📖 フランツ1世|影に徹した皇帝、女帝を支えた愛と忍耐
📖 マリア・テレジア| 女帝の闘いと帝国再建の物語
📖 国事詔書とは?|一枚の布告が招いた戦争と継承の運命
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