第一次ウィーン包囲網とは、1529年、オスマン帝国の皇帝スレイマン1世が15万ともいわれる大軍を率い、ハプスブルク家の拠点ウィーンを包囲した戦いである。
(第一次ウィーン包囲)
この戦いは単なる都市の攻防戦ではなく、ハプスブルク家の存続、ひいてはヨーロッパの勢力図を左右する重大な局面となった。
この記事のポイント
- 第一次ウィーン包囲とは、1529年にオスマン帝国がウィーンを包囲した戦い
- スレイマン1世が15万の大軍を率い、ハプスブルクの中枢を脅かした
- しかし補給難と寒波によりオスマン軍が撤退し、ウィーンは壊滅を避けられた
若きフェルディナント1世、宿命の時
(若き日のフェルディナント1世)
ウィーンを守る使命を背負ったのは、ハプスブルク家の若き指導者、フェルディナント1世。
その名は、将来の神聖ローマ皇帝として歴史に刻まれることとなるが、今はまだ、オーストリアの統治を任されたばかりの青年にすぎなかった。
当初、ドイツ語も満足に話せない異国の君主に対し、オーストリア貴族たちは冷たい視線を向けた。しかしフェルディナントは、粘り強く貴族層を懐柔し、着実に自身の地盤を固めていく。
そんな彼の前に立ちはだかったのが、東方から忍び寄るオスマン帝国の影だった。
モハーチの衝撃とオスマン帝国の侵略
1526年、ハンガリー王ラヨシュ2世が「モハーチの戦い (ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦) 」で戦死すると、ハンガリー王位は宙に浮いた。
フェルディナント1世は、ハンガリー王ラヨシュ2世の姉アンナを妻に迎えており、王家と姻戚関係にあった。 そのため、正統な後継者として即位を主張するが、ハンガリー貴族の一部はオスマン帝国の支援を受け、サポヤイ・ヤーノシュ (ハンガリー貴族) を王に擁立した。
(相関図)
スレイマン1世はこの機を逃さず、西欧へ侵攻を開始。彼は、単なる領土拡張を超えた「聖戦」を自負し、その矛先をウィーンへと向けた。
15万を超えるとされる大軍が、ハプスブルクの中枢を脅かそうとしていた。
1529年、ウィーンを包囲せしオスマン軍
オスマン帝国軍は、豪壮な砲兵隊、騎兵隊、精鋭イェニチェリを擁し、まさに無敵の勢いで進軍した。これに対し、ウィーンの守備兵はわずか2万人。
しかし彼らは、フェルディナント1世の命のもと、徹底抗戦の構えを見せた。9月27日、オスマン軍がウィーン城壁に迫る。激しい砲撃、梯子をかけた総攻撃。
しかし、ウィーンの守備隊も一歩も引かず、石弾、熱湯、煮えたぎる油を浴びせ、敵の侵入を阻止した。ウィーン市民も戦闘に加わり、まさに総力戦の様相を呈していた。
ウィーンの奇跡、そしてオスマン軍の撤退
包囲戦は長期戦へと突入し、状況は次第にオスマン軍にとって不利となっていく。
補給線が長大で兵糧が枯渇し、ウィーンの防衛は想像以上に頑強であった。そして決定的だったのが、突如訪れた異常気象。
10月、早すぎる寒波が訪れ、オスマン軍の兵士たちは凍え、士気は低下した。10月14日、ついにスレイマン1世は撤退を決意。ハプスブルク家は壊滅の危機を乗り越えたのだった。
第一次ウィーン包囲の遺産
この戦いの後、フェルディナント1世はウィーンの防衛力を飛躍的に向上させた。城壁は強化され、要塞都市へと変貌を遂げる。
そして、この経験が1683年の「第二次ウィーン包囲」で活かされることとなる。
一方、オスマン帝国はハンガリー支配を続けるものの、ウィーンを落とすには至らなかった。この包囲戦は、西欧がオスマン帝国の脅威を意識する契機となり、ハプスブルク家の威信を確立させた戦いとして、歴史に刻まれることとなった。
まとめ
第一次ウィーン包囲は、単なる軍事的攻防戦ではなく、「ヨーロッパ全体の運命を決する戦い」であった。
フェルディナント1世の統率のもと、ウィーンは決死の抵抗を見せ、オスマン帝国の野望を打ち砕いた。フェルディナント1世の統率のもと、ウィーンは決死の抵抗を見せ、オスマン帝国の進軍を一時的に食い止めた。
しかしオスマン帝国の脅威はその後も続き、ハプスブルク家と東方との緊張は、しばらく解かれることはなかった。
さらに詳しく:
📖 カール5世|太陽の沈まぬ帝国、その重さと孤独
📖 フェルディナント1世 | オーストリア・ハプスブルク家の礎を築いた皇帝
📖 アウクスブルクの和議とは?|帝国の分裂を認めた妥協の行方
参考文献
- Johannes Kunisch, “Kaiser Ferdinand I. und das Heilige Römische Reich”, C.H. Beck Verlag, 2002.
- Geoffrey Parker, “The Military Revolution: Military Innovation and the Rise of the West, 1500-1800”, Cambridge University Press, 1996.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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