「選帝侯の資格を奪われたなら、自ら作り出せばよい」
(ルドルフ4世の肖像画)
ルドルフ4世はそう考えた。帝国の頂点に立つために、彼が選んだのは剣ではなく、紙と印章だった。しかし、その策略が帝国の未来を変えることになるとは、誰も予想していなかった。
この記事のポイント
- カール4世は1356年、金印勅書を公布し、ハプスブルク家を選帝侯から排除した
- ルドルフ4世は対抗策として「大特許状」を偽造し、特権の正当性を主張
- 大特許状は一時否定されたが、後にハプスブルク家の権威を支える基盤となった
📖 ルドルフ4世の基本情報はこちら ▶
運命の交錯
ルドルフ1世の死後、神聖ローマ帝国は混迷の時代に突入した。
皇帝の座を巡る争いは、単なる血統では決まらない。帝国の運命は、選帝侯たちの思惑と、諸侯同士の果てしない駆け引きによって揺れ動いた。
(冠マーク:神聖ローマ皇帝位についた人物)
ルドルフ4世が生きたのは、まさに「カール4世の時代」だった。神聖ローマ帝国の頂点に立つのはルクセンブルク家の皇帝カール4世。
そしてその婿こそ、オーストリア公ルドルフ4世である。
義父と婿、そして帝国の覇権
皇帝の座に君臨する義父カール4世と、帝国の中で勢力を伸ばしたい婿ルドルフ4世。この二人の関係は、単なる家族の絆では語れない。
むしろ、 帝国の未来を巡る壮絶な駆け引きだった。
カール4世は、金印勅書を制定し、ハプスブルク家を選帝侯の地位から排除した。一方、ルドルフ4世は、その決定を覆すべく 「大特許状」 を創り出した。婿と舅――
その戦いは、単なる家族の対立ではなく、 帝国の秩序を揺るがす壮絶な政争へと発展していく。
金印勅書とハプスブルク家の危機
(カール4世の大特許状 図解)
1356年、カール4世は「金印勅書」を公布し、神聖ローマ帝国の選挙制度を確立した。
この勅書によって、帝国の七人の選帝侯が皇帝を選ぶ権利を持つことが明文化された。しかし、ここにハプスブルク家の名前はなかった。
帝国の中心から締め出されたのである。
これまで皇帝の座を狙っていたハプスブルク家にとって、この勅書は「帝国の中での格下げ」を意味した。オーストリア公国は広大な領土を持ちながら、政治的な発言権を失いかねない。
ルドルフ4世は、祖先の築いた威光が失われることを許せなかった。
ルドルフ4世の“大特許状”
「皇帝が自らの地位を決めるのなら、我々もそれに倣えばよい。」
ルドルフ4世は、カール4世の「金印勅書」に対抗し「大特許状」 を作成した。だが、驚くべきはその「証拠」だった。
この大特許状には、古代ローマの英雄 ユリウス・カエサルと暴君ネロ が、はるか昔にオーストリア公に与えた特権を証明する手紙が添えられていたのだ。
しかし、これはすべて ルドルフ4世の創作だった。大特許状は、 帝国最大級の偽造文書であったのである。
カール4世との駆け引き
大特許状を持参したルドルフ4世は、1359年にカール4世に面会した。彼はこの文書の正式な承認を求めたが、カール4世は即座にこれを拒否した。
「これは、帝国の秩序を乱す偽書にすぎぬ。」
しかし、カール4世はルドルフ4世の執念と狡猾さを警戒した。
ルドルフ4世は、単なる力ずくの抗議ではなく、帝国の権威を巧みに利用しようとしたのだ。彼の狙いは、帝国全体に影響を与えることであった。
そこでカール4世は、この問題をうやむやに処理する道を選んだ。
「公式には認めないが、完全に否定もしない」 という曖昧な態度を取ることで、ハプスブルク家との関係を完全に断絶しないようにしたのである。
ルドルフ4世の死と“幻の権利”
ルドルフ4世は、 1365年にわずか25歳で急死 した。
彼の死後、大特許状は正式な効力を持たないままとなった。しかし、彼の死によってその企みが完全に潰えたわけではなかった。
その後、ハプスブルク家は巧みにこの文書の存在を利用し続けた。時代が進むにつれ、大特許状に記された特権は歴史的事実として扱われるようになったのだ。
そして 15世紀、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(ハプスブルク家出身)が、ついにこの文書の内容を事実上のものとして認めた。
ルドルフ4世の策謀は、数世代を経てようやく結実したのである。
まとめ
(経緯の図解)
ルドルフ4世の大特許状は、一時は「偽書」として片付けられたものの、 後世においてはハプスブルク家の正当性を確立する武器となった。
- 彼の策略は短期的には失敗に終わったが、長期的には帝国の支配構造を変えた
- 金印勅書によって選帝侯資格を奪われたハプスブルク家は、大特許状によって名誉を回復し、ついには皇帝の座を独占するまでに至る
カール4世はこの策略を否定したものの、完全には排除できなかった。その結果、ハプスブルク家は 「策謀による権力確立」の先駆者 として、帝国史に名を残した。
ルドルフ4世の策略は、単なる権力争いではなかった。それは、 未来のハプスブルク家が「帝国の中心」へ返り咲くための、最初の布石 だったのである。
さらに詳しく:
📖 金印勅書とは?選挙王制を定めた帝国の憲法
📖 選帝侯とは何者か?神聖ローマ帝国における“選ぶ者たち”の権力構造
参考文献
- Peter Moraw, The Holy Roman Empire 1495-1806, Oxford University Press, 2011.
- Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Volume I 1493-1648, Oxford University Press, 2012.
- James Bryce, The Holy Roman Empire, Macmillan, 1904.
- Franz-Josef Schmale, Rudolf IV. von Österreich: Der Stifter, Böhlau, 1986.
- Heinz Dopsch, Österreichische Geschichte 1278–1411. Die Länder und das Reich. Der Aufstieg der Habsburger und das Reich, Ueberreuter, 1999.
- Brigitte Vacha (Hrsg.), Die Habsburger. Eine europäische Familiengeschichte, Ueberreuter, 1992.
- Heinz Thomas, Deutsche Geschichte des Spätmittelalters, Kohlhammer, 1983.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
コメント