「選ばれし王などいない。選ばれねば、自らの力でなるまでだ。」
痩せた顔に鷲鼻を備えた長身の男、ルドルフ1世。その質素な身なりの奥には、静かだが揺るぎない信念が秘められていた。
(ルドルフ1世の肖像画)
神聖ローマ帝国という名ばかりの帝国に、新たな風を吹き込んだのは、諸侯すら期待していなかった“貧乏伯爵”だったのである。
この記事のポイント
- 貧乏伯爵ゆえに、選帝侯らにより「都合のよい王」として抜擢されたルドルフ1世
- 予想を裏切り、マルヒフェルトの戦いで奇策を用い金持ち王オタカルを討ち破る
- 「皇帝」を目指さず、現実的統治でハプスブルク帝国の礎を築いた
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帝国の空白、その混乱
13世紀後半、神聖ローマ帝国は「大空位時代」と呼ばれる混沌の中にあった。
歴代の王たちは互いに皇帝を名乗り、皇帝戴冠のためのローマ遠征など夢のまた夢。秩序なき王国には、私闘があふれ、治安は崩壊寸前だった。そこでローマ教皇と諸侯は、新たな王の選出を急ぐ。
しかし、諸侯たちが望んだのは強力な王ではない。
「操り人形」に選ばれた男
「そこそこの人物」で、できれば言うことを聞く者。その条件にぴたりとはまったのが、スイスの貧乏伯爵、ルドルフ・フォン・ハプスブルクであった。
質素な身なり、引き締まった顎に青白い顔―その風貌に、誰もが彼を「無害」とみなした。
だが、彼らは知らなかった。この伯爵がただの“操り人形”ではなく、緻密な策略を持つ、老練なリアリストであることを。
対立王オタカルとの衝突
(当時のハプルブルク領土)
新王の即位に異を唱えたのが、ボヘミア王オタカル2世だった。
豊かなボヘミアとオーストリアを手にし、「金持ち王」と称されたオタカルは、自らが王にふさわしいと主張し、ルドルフへの臣従を拒否した。
対話は拒まれ、剣が交わされる。1278年、マルヒフェルトの戦いだ。
ルドルフはわずか60騎の伏兵を用いた奇策で、圧倒的優位に立つオタカルを討ち取った。「貧乏伯爵が金持ち王に勝った」この勝利は、帝国に新たな時代を告げる鐘であった。
慎重なる統治
しかし、ルドルフは勝利に酔わなかった。マルヒフェルトの奇策は二度と使えぬ。
それを理解していた彼は、オタカルの嫡男ヴァーツラフにボヘミア王国を安堵し、代わりにオーストリア公領をハプスブルク家のものとした。
ただし、それは戦いから6年後のこと。ルドルフは急がなかった。在地貴族の反発を抑え、確実に“よそ者”から“支配者”へと認識を変えていった。
諸侯たちの後悔
(王位の移り変わり)
ルドルフが73歳で没した1291年。帝国はふたたび王の選出に揺れる。諸侯たちは、彼の嫡男アルブレヒト1世を避けて別の人物を王に選出した。
彼らは悟っていた。「あの貧乏伯爵は、もはや操れぬ存在となっていた」そして、その息子もまた父以上に手ごわいに違いないと。
こうしてルドルフは、神聖ローマ「皇帝」にはならずに逝った。だが、彼が選ばれし王の座は、その後650年にわたり、ハプスブルク家の系譜を染め上げることになる。
まとめ
貧しい地方伯爵にすぎなかったルドルフ1世は、「操りやすい」と踏んだ諸侯たちによって、王に選ばれた。
だがその判断こそが、帝国の運命を変えることとなる。圧倒的な軍勢を前に、彼はわずか60騎の伏兵で戦局をひっくり返し、“金持ち王”オタカルを討ち取った。
けれど、彼は力に酔わなかった。あくまで慎重に、着実に、王国を築いていった。
夢であるはずの皇帝の冠を追い求めることもせず、現実を見据えた統治に徹したその姿は、どこまでも静かで、どこまでも確かだった。彼の手で手にしたオーストリアは、やがてハプスブルク家を「帝国の心臓」へと押し上げる拠点となる。
さらに詳しく:
📖 神聖ローマ帝国とは何だったのか
📖 大空位時代とは?|王なき帝国が生んだ混乱と再編の序章
参考文献
- Alfons Lhotsky, Rudolf I. und der Aufstieg der Habsburger, Wien, 1961.
- Peter Moraw, The Holy Roman Empire 1495-1806, Oxford University Press, 2011.
- Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Volume I 1493-1648, Oxford University Press, 2012.
- James Bryce, The Holy Roman Empire, Macmillan, 1904.
- Franz-Josef Schmale, Rudolf I. von Habsburg: Der Wiederhersteller der Ordnung, Böhlau, 1986.
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