zかすかな呼吸が聞こえる。赤子は、まるで壊れ物のように白い絹に包まれ、母の胸に抱かれていた。
フェリペ・プロスペロ──スペイン王国の未来を託された王太子。だがその運命は、生まれ落ちた瞬間から、すでに呪われていた。
(フェリペ・プロスペロ王子の肖像画)
王冠は彼を待っていた。
しかし、それを支えるはずの身体は、あまりにか弱かった。王たちが積み重ねてきた血と婚姻の重みが、ひとりの子にすべてのしかかるとき、歴史は静かに軋み始める。
ショート動画で見る(1分以内)
「近親婚が生んだ王太子」
フェリペ・プロスペロは、スペイン・ハプスブルク家の王フェリペ4世とその姪マリアナ・デ・アウストリアの間に生まれた男子である。
いとこ婚、兄妹婚、叔姪婚を繰り返してきたスペイン王家の「近親婚」の集大成とされ、誕生と同時に王位継承者とされた。
(PDF リンク付き家系図はこちら▶️)
父フェリペ4世は、先妻との間に生まれた長男バルタサール・カルロスを早世で失い、王位の後継者がいないまま老境に差しかかっていた。彼が晩年に再婚し、ようやく得た男児こそ、このフェリペ・プロスペロであった。
その誕生は宮廷に歓喜をもたらし、マドリードは祝賀に沸いた。だがその喜びは長くは続かない。王子は、明らかに弱々しかった。王国の未来は、またしても薄氷の上にあったのである。
命の短さと肖像画に託されたもの
1659年、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスは、まだ幼いフェリペ・プロスペロの肖像を描いた。
黄金の椅子に立つ王子の姿は、あまりに儚い。
(フェリペ・プロスペロ王子の肖像画)
彼の傍には悪霊除けの護符や聖人の遺物、祈祷札が並べられていた。胸元のネックレスに下がる護符には「悪魔よ去れ」と記され、目にはうっすらとした憂いが漂う。
それは祝福の肖像ではなかった。王家の祈りと絶望が交差する、未来への焦燥が滲む絵である。
実際、宮廷医師の記録によれば、王子はしばしば発熱し、痙攣を起こし、食事を拒むなど、明らかに病弱な体質を抱えていた。
おそらく、神経系の先天性疾患──現代医学では癲癇や代謝異常が疑われている。いずれにせよ、ハプスブルク家の血は、明らかに限界に達していた。
王国の希望、そして喪失
王子の命が国そのものの希望だった。国民もまた、このか細い王子に夢を見た。彼こそがスペイン帝国の存続を支える柱となるはずだったのだ。
だが1661年11月1日、彼はわずか3歳でこの世を去る。王国の鐘楼 (しょうろう) は悲報を告げ、宮廷は黒衣に染まった。
奇妙な因縁のように、そのわずか5日後に次男カルロスが誕生する。彼こそが「呪われた王」、カルロス2世である。フェリペ・プロスペロの死が、ハプスブルク家最後の章の幕開けとなった。
近親婚の果てに生まれた「なれなかった王」
フェリペ・プロスペロの存在は、「なれなかった王」として歴史に刻まれている。だが、実は彼の死が持つ意味は、それ以上に深い。
ハプスブルク家は、純血を守るという名目で近親婚を代々続けてきた。その結果が、病弱な子どもたちの連鎖であり、国家の安定を著しく損なうこととなった。
実際、彼の母マリアナは父フェルディナント3世の娘、つまりフェリペ4世の姪である。この叔姪婚によって生まれたフェリペ・プロスペロとカルロス2世は、すでに「遺伝的限界」に達した存在だった。
運命の継承と王朝の終焉
カルロス2世の極端な下顎前突症、言語障害、不妊──そのすべては、フェリペ・プロスペロの死によって回避された未来であったのかもしれない。
フェリペ・プロスペロの死は、単なる幼児の夭折ではなかった。それは、王朝が生物学的にも政治的にも持ちこたえられなくなったことの象徴である。
もし彼が健康で成長していれば、スペイン継承戦争は起こらなかったかもしれない。だが、その可能性は失われた。
王座は病弱なカルロス2世に委ねられ、そして王朝は静かに滅びの道を歩み始める。
まとめ
フェリペ・プロスペロの名は、歴代スペイン王たちのように歴史の年表を飾ることはない。だが、その短すぎる生涯は、王朝の希望と崩壊を同時に映し出す鏡である。
近親婚の果てに生まれ、王になれなかった王子。その名は、王冠ではなく、王朝の“限界”を記した記憶として、今も語り継がれている。
──そして、王位継承者となったのは、さらに深い病と孤独を背負う弟、カルロス2世であった。
📖 『ラス・メニーナス』の王女|ハプスブルクの血に縛られた少女の肖像
📖 カルロス2世|呪われた王とスペイン・ハプスブルク家の終焉
📖 ハプスブルク顎 (下顎前突症) とは | 王家の血統を守った代償と悲劇
参考文献
-
Archivo General de Simancas, Leg. 288-4: “Cartas del doctor Molina sobre la salud del príncipe Felipe Próspero”
-
Museo del Prado: “Retrato del príncipe Felipe Próspero” por Diego Velázquez
-
Henry Kamen, Spain’s Road to Empire: The Making of a World Power, 1492–1763. Penguin, 2003.
-
J.H. Elliott, Imperial Spain: 1469–1716. Penguin Books, 2002.
-
Hugh Thomas, The Golden Age: The Spanish Empire of Charles V. Random House, 2010.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
コメント