ヴェストファーレン条約とは?ハプスブルク家の衰退とフランスの台頭

1648年、ヴェストファーレン条約 (ウエストファリア条約)。この日、ヨーロッパの支配構造が静かに、しかし決定的に書き換えられた。

1646年、平和交渉のためミュンスターに向かう一行 (1646年、平和交渉のためミュンスターに向かう一行)

16世紀、婚姻と皇帝位を駆使してヨーロッパを掌握していたハプスブルク家。だが「三十年戦争」を境に、その覇権は揺らぎ始める。戦争の果てに立ち上がったのは、全く異なる性格を持つ新たな主役――フランス王国であった。

この記事では、ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の衰退と、ルイ13世・ルイ14世が率いたフランスの台頭を、ヴェストファーレン条約前後の出来事を軸に描く。

この記事のポイント
  • 1648年、ヴェストファーレン条約で神聖ローマ皇帝の権限が縮小される
  • ハプスブルク家の求心力が弱まり、帝国は分権化の時代へ移行する
  • フランスが外交と軍事で優位に立ち、覇権争いの主導権を握り始める

ヴェストファーレン条約とは何か?

それは、三十年戦争を終結させるために1648年10月24日に調印された二つの講和条約――

神聖ローマ皇帝(オーストリア・ハプスブルク家)がフランスと結んだ「ミュンスター条約」と、スウェーデンと結んだ「オスナブリュック条約」の総称である。

スペインも会議には参加していたが、フランスとの交渉が決裂し、最終的な批准には至らなかった。

この条約は、宗教対立から始まった大戦争の火を消し止めると同時に、「国家主権」という新たな原則を世界に刻んだ。普遍的な帝国の理想は破られ、ヨーロッパは「国」ごとの秩序へと歩み始めたのである。

宗教戦争から列強の抗争へ

三十年戦争は、1618年の「窓外放擲事件」に端を発する。

プロテスタント諸侯が皇帝のカトリック政策に反発し、ボヘミアで蜂起したのが発端だった。だが、この内乱はすぐに帝国内外の列強を巻き込む宗教戦争となり、次第に政治と領土をめぐる争いへと変貌していく。

戦争は四つの段階を経て進行した。ボヘミア・プファルツ戦争、デンマーク戦争、スウェーデン戦争、そして最終段階のフランス・スウェーデン戦争である。

ハプスブルク家にとっては、支配の正統性を賭けた決戦であり、フランスにとっては、欧州の覇者をめぐる新たな挑戦の場であった。

フランスの登場と戦局の転換

1635年、ついにフランスが参戦する。

それまで背後でプロテスタント勢力を支援していたフランスが、ついに表舞台に現れたことで、戦局は一変する。ハプスブルク家は、東西の戦線で圧力にさらされるようになり、戦況は徐々に劣勢に傾いた。

一方で、スウェーデンのグスタフ・アドルフが戦死し、同盟軍に動揺が広がったものの、フランスの軍事・外交力はそれを補って余りあるものであった。アルザスなど戦略的要衝を確保したフランスは、講和における主導権も握るようになっていく。

ヴェストファーレン条約の内容と影響

ヴェストファーレン条約 (図解) (ヴェストファーレン条約の図解)

1648年10月24日、ヴェストファーレン条約が調印される。最大の特徴は、「帝国の中心にいた皇帝の権威」が大きく制限され、「領邦国家」が強く認められた点である。

宗教面では、ルター派とカトリックに加えてカルヴァン派が新たに公認され、「個人信仰の自由」も広く認められた。帝国における宗教の画一性は崩れ、「信じるものは自らが選ぶ」という近代的観念が芽生え始めた。

政治面では、神聖ローマ皇帝は立法・軍事・外交において帝国議会の承認を必要とするようになり、諸侯たちはその領邦における主権(領邦高権)を正式に保持することとなった。

事実上、神聖ローマ帝国は「連邦国家」としての性格を強めることになる。

勝者と敗者――覇権の移り変わり

フランスは講和条約により、アルザスなどドイツ西部の要地を獲得し、帝国内での影響力を拡大した。スウェーデンは北ドイツに領土を得て、列強としての立場を確立。

スイスとオランダは、その独立が国際的に正式承認された。

ハプスブルク家はどうだったか。確かに、自領内ではカトリック支配を維持し、反乱勢力を鎮圧することに成功した。

だが、神聖ローマ帝国という広域的な舞台では、かつての絶対的な地位を失い、「調整役」としての立場に後退する。ヨーロッパ全体の秩序を導く存在から、一地方の有力君主へと、その姿は変わっていったのである。

まとめ

ヴェストファーレン条約は、三十年戦争の終結と同時に、ハプスブルク家の普遍的支配という野望に終止符を打った。そして同時に、フランスという新たな覇権国家の登場を告げる契機ともなった。

この条約がもたらしたもの――

それは、「皇帝の帝国」から「諸国家のヨーロッパ」への転換である。ヴェストファーレン体制と呼ばれる新しい秩序は、やがて国際関係の基礎となり、今日の世界にまでその影響を残している。

さらに詳しく:
📖 フェルディナント2世|宗教と帝国の狭間で揺れた皇帝
📖 三十年戦争とは | ハプスブルク帝国を揺るがせた宿命の戦い

参考文献
  • Peter H. Wilson, The Thirty Years War: Europe’s Tragedy, Harvard University Press, 2009.
  • C.V. Wedgwood, The Thirty Years War, New York Review Books, 2005.
  • Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Vol. II, 1648–1806, Oxford University Press, 2012.
  • Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, Cambridge University Press, 1972.
  • 岩波講座『世界歴史 16』より「ハプスブルク帝国の構造転換」
  • ユーザー提供資料:『神聖ローマ帝国 800年の歴史』『カール五世の手紙』『スペイン・ハプスブルク』などの翻訳・要約
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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