マクシミリアン2世は、ハプスブルク家の中でも異色の皇帝であった。カトリックの名門に生まれながらも、プロテスタントにも理解を示し、帝国内の宗教対立の調停を試みた。
彼の治世は、宗教改革の嵐が吹き荒れる中、皇帝権の強化と宗教融和の狭間で揺れ動くこととなる。
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基本情報
称号 | 神聖ローマ皇帝 |
ハンガリー国王 | |
ボヘミア国王 | |
オーストリア大公 | |
出生 | 1527年7月31日(ウィーン) |
死去 | 1576年10月12日(レーゲンスブルク) |
享年 | 49 |
治世 |
1564年7月25日~1576年10月12日(神聖ローマ皇帝)
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伴侶 | マリア・フォン・スペイン |
子女 | ルドルフ2世(後継者) |
エルンスト大公 | |
マティアス(後の神聖ローマ皇帝) | |
マクシミリアン3世 | |
アルブレヒト7世 | |
アンナ | |
エレオノーレ | |
エリザベート | |
マルガレータ | |
マリア | |
カール | |
ヴェンツェル | |
フリードリヒ | |
ヨハン | |
クリスティーネ | |
カタリーナ | |
父親 | フェルディナント1世 |
母親 | アンナ・ヤギエロ |
前任者 | フェルディナント1世 |
後継者 | ルドルフ2世 |
人物の背景
マクシミリアン2世は、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の長男として生まれた。
彼は若い頃から広い知識と開明的な思考を持ち、特に宗教問題に対しては柔軟な姿勢を示した。スペインで育った彼はカトリックの厳格な教育を受けたが、ドイツに戻るとプロテスタントの思想にも理解を示し、両宗派の調和を図ろうとした。
治世で起きた主要な出来事
- 宗教政策と寛容の姿勢
- 1568年、プロテスタントとの融和を図るも、カトリック勢力の強い反発に遭う
- 宗教改革の進展を受け、対立を抑えるために中立的な立場を維持
- 対外政策
- オスマン帝国との和平交渉を進めるが、オーストリア領への脅威は続いた
- スペインのフェリペ2世との関係を維持しつつ、独自の外交路線を模索
- 帝国内の政治的対立
- 皇帝権を強化することができず、諸侯の自立傾向が進行
- 貴族や領邦君主との折衝に追われ、統一的な帝国政策を打ち出すのが困難となる
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