マクシミリアン1世は、神聖ローマ皇帝としてハプスブルク家の繁栄の礎を築いた人物である。父フリードリヒ3世からドイツ王位とオーストリア領を継ぎ、軍事行動と婚姻政策を両輪に広大な帝国を形作った。
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マクシミリアン1世と婚姻政策|結婚で築かれた帝国読む ▶
基本情報
称号 | 神聖ローマ皇帝 |
ドイツ王 | |
オーストリア大公 | |
出生 |
1459年3月22日(ウィーナー・ノイシュタット)
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死去 | 1519年1月12日(ヴェルス) |
治世 | 1493年〜1519年(神聖ローマ皇帝) |
1486年〜1508年(ローマ王 (ドイツ王)) | |
1477年〜1482年(ブルゴーニュ公) | |
伴侶 | マリー・ド・ブルゴーニュ |
ビアンカ・マリア・スフォルツァ | |
子女 | フィリップ美公 |
マルガレーテ (マルグリット) | |
父親 | フリードリヒ3世 |
母親 | エレオノーレ・デ・ポルトゥガル |
前任者 | フリードリヒ3世 |
後継者 | カール5世 |
人物の背景
マクシミリアン1世は、若き頃からオーストリア内乱やフランスとの対立に翻弄されながらも、1477年にブルゴーニュ女公マリーと結婚し、ネーデルラントとフランドルをハプスブルク家にもたらした。
(マクシミリアン1世の家系図)
マリーの死後は摂政としてこれらの地を統治し、フランスとの長い戦争に巻き込まれる。1508年、ローマでの戴冠を果たせなかったマクシミリアンは、自ら「選出された皇帝」を名乗り、以降ローマ戴冠の伝統は途絶えた。
彼は遠大な帝国統一の理想を掲げつつも、現実には戦費と諸侯の協力不足に悩まされ続けた。騎士道を愛しながら、近代官僚制と財政基盤の整備にも尽力した。
治世で起きた主要な出来事
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ブルゴーニュ継承戦争(1477年〜)
妻マリーの遺領を巡ってフランスと対立し、ネーデルラント支配を確保。 -
フランスとの対立とイタリア政策(1494年〜)
シャルル8世のイタリア侵攻を受け、北イタリアでの覇権争いに巻き込まれる。
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ハプスブルク婚姻政策の展開
息子フィリップのスペイン王女フアナとの結婚や、ハンガリー・ボヘミア王家との連携を通じ、家門拡大に成功。
(家系図と相関図)
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帝国統治体制の整備
ローマでの戴冠が阻止され、神聖ローマ皇帝としての即位を「選出」により正当化。
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ハプスブルク婚姻政策の展開
永久ラント平和令の発布、帝室裁判所や帝国管区の導入、帝国議会制度の整備などを推進。
マクシミリアン1世は、理念と現実の狭間で苦闘しながらも、帝国の形を未来に残した。彼の治世は、封建時代の終焉と近世国家の胎動が交錯する、転換期の象徴でもあった。
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