フランス革命の嵐がヴェルサイユを飲み込んだとき、ギロチンにかけられた王妃の名は、マリー・アントワネット。
(マリー・アントワネット)
だが、その首を落とした刃の背後に、ヨーロッパのもう一つの巨大な影があったことを忘れてはならない。そう、彼女は「ハプスブルク皇女」であり、あのマリア・テレジアの末娘だったのだ。
この記事のポイント
- 1770年、マリー・アントワネットが政略結婚で仏王太子に嫁ぐ
- 国王夫妻がギロチンにかけられ、ルイ17世が革命下で獄中死、王女は孤独な監禁生活を送る
- 唯一生き残ったマリー・テレーズは人質交換という形釈放され、ウィーンに帰還する
母マリー・アントワネットの出自と使命
マリー・アントーニア――それが彼女のウィーンでの名だった。
神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの間に生まれた15人きょうだいの一人であり、幼少期から厳格な教育を受けたとはいえ、音楽と遊びが好きな快活な皇女だった。
だが、彼女の運命は個人の幸福にではなく、ハプスブルク家の国家戦略に委ねられていた。
マリア・テレジアが実践した「婚姻政策」、すなわち戦争よりも結婚による外交関係の強化の一環として、14歳でフランス王太子ルイと政略結婚させられることとなる。
(家系図と相関図)
この婚姻は、ハプスブルク家とブルボン家の歴史的和解を象徴するものとされ、ウィーンは祝福に包まれた。だが、アントワネットが向かった先のフランス宮廷は、彼女に冷淡だった。
幼き王女と王子たち|フランスでの束の間の幸福
結婚から7年、ようやく第一子マリー・テレーズが誕生したとき、アントワネットはようやく「王妃」としての責務を果たしたと見なされた。
待望の男児――ルイ・ジョセフがその3年後に生まれると、祝賀ムードは頂点に達する。
さらに次男ルイ・シャルル、末娘ソフィーと、次々に王家の血脈が増えていった。だがこの幸福は、薄氷の上に築かれた儚い幻想にすぎなかった。
長男ルイ・ジョセフは結核により7歳で夭折し、ソフィーは1歳にも満たずに亡くなった。こうして、王位継承者の座は次男ルイ・シャルルに委ねられる。
それでも家族は束の間の幸福を享受していた。だが、1789年――フランス革命が始まると、その平穏は無残に引き裂かれてゆく。
ルイ17世の獄中死とマリー・テレーズの孤独
国王一家はヴェルサイユからテュイルリー宮殿へと移され、やがてヴァレンヌ事件――亡命未遂の失敗によって民衆の怒りは頂点に達した。
1792年、一家はパリのタンプル塔に投獄され、ルイ16世は翌年断頭台に送られる。
このとき残されたのは、まだ10歳に満たぬルイ・シャルルと14歳のマリー・テレーズ。叔母エリザベートとともに塔に閉じ込められた彼らの運命は、ここから地獄のような道をたどることになる。
(監禁される国王一家)
革命政府は、王党派がルイ・シャルルを「ルイ17世」として担ぎ上げることを恐れた。1793年7月、彼は母と姉から引き離され、地下牢に単独で監禁された。
この孤独な少年は、人間らしい扱いを受けることもなく、暴力と汚物にまみれた日々を送り、やがて病に倒れていく。母が処刑されたことすら知らされず、助けを求める姉の願いも届かぬまま、1795年、わずか10歳で死亡。
後の検死記録によれば、彼の小さな身体には病と虐待の痕が刻まれていたという。
ウィーンへ帰った王女|ハプスブルクが受け入れた少女
その間、マリー・テレーズもまた孤独の中にいた。階下から聞こえる弟の泣き声、本を繰り返し読むしかない日々――それが彼女の青春だった。
(マリー・テレーズを描いた絵 「寺院の孤児」)
そんな彼女を救ったのは、皮肉にもハプスブルク家であった。
1795年、17歳の誕生日、彼女は母の兄弟である皇帝フランツ2世の囚人と交換され、オーストリアに送られることとなる。フランスで生まれた王女が、ウィーンの地に再び降り立った瞬間、歴史は静かに円を描いた。
ハプスブルクの血を引く最後のブルボン王女として、彼女は母の故郷に迎えられた。だが、そこは安息の地ではなかった。
彼女がかつて知っていた人々は亡命しており、家族はすべて命を奪われていた。
ブルボンとハプスブルクの狭間に
1799年、マリー・テレーズは父の弟の子である「ルイ・アントワーヌ」と結婚。
これはブルボン王朝の復権を見据えた政略結婚であり、彼女はハプスブルクの誇りとブルボンの重荷を両肩に背負うことになった。
1814年、ナポレオンの失脚とともにルイ18世が王位に就くと、彼女は「王妃」としてフランスに戻る。だが、彼女はヴェルサイユの栄華を再現することはなかった。
浪費癖のあった母とは対照的に、彼女は質素を貫き、45人の使用人だけを抱えるにとどめた。その姿は、王妃ではなく、「革命と喪失を知る証人」であった。
まとめ
マリー・アントワネットの子供たちのうち、天寿を全うしたのはマリー・テレーズただ一人であった。王女であり、亡命者であり、帰還者でもあった彼女は、二つの王朝――ハプスブルクとブルボンの狭間で生き抜いた稀有な存在だった。
彼女の人生には、母の美貌も、父の権威もなかった。あったのは、深い孤独と、それに打ち勝った静かな誇りである。
さらに詳しく:
📖 【フランス革命とは何だったのか】ブルボン家崩壊の衝撃
参考文献
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フレイザー, アントニア『マリー・アントワネット』上・下巻(中公文庫、2001年)
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長谷川まゆ帆『マリー・アントワネットの子供たち』(河出書房新社、2006年)
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スタール夫人『革命下の王女 マリー・テレーズ』手塚リサ訳(白水社、2010年)
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デュバク, ジャン=クリストフ『ルイ17世の死』中山京子訳(藤原書店、1999年)
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渡邊昌美『フランス革命と王政の崩壊』(講談社現代新書、1995年)
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エゴン・C・コルディ『ハプスブルク家の人々』(新書館、1992年)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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