「汝は結婚せよ、幸せなるオーストリアよ。戦うのは他国に任せよ。」
(マクシミリアン1世)
それは誉れか、それとも皮肉か。ハプスブルク家は、婚姻によって王国を手にし、そして婚姻によって苦悩した。一族の運命は、いつも結婚から始まり、終わった。
この記事のポイント
- マクシミリアン1世が政略結婚でブルゴーニュを獲得し、婚姻政策が戦略として始動
- カール5世が複数の王冠を継承し、結婚だけで帝国を築く「太陽の沈まぬ帝国」が誕生
- 近親婚を繰り返した結果、婚姻政策は崩壊と戦争を招くこととなった
一族の“武器”としての結婚
「結婚による領土拡大」、これがハプスブルク家を語る上で欠かせない外交戦略である。
もちろんそれだけではないにせよ、他の王朝が剣を抜いて征服を狙った時、ハプスブルクは“結婚”というもっとも優雅な手段で版図を広げた。
この方針が本格化したのは、15世紀末、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代である。
彼はブルゴーニュ公女マリーと政略結婚を結び、ネーデルラント、フランドル、ブルゴーニュなど、当時ヨーロッパで最も豊かな地域を“剣を振るうことなく”手中に収めた。
ブルゴーニュの花嫁──マクシミリアンの賭け
その結婚は偶然ではない。
ブルゴーニュ公シャルル突進公の死後、娘マリーにはフランス王ルイ11世が迫っていた。だがマクシミリアンは、巧みにこの縁談に割り込み、自らの家門を「辺境の貴族」から「ヨーロッパ中枢の王朝」へと変貌させたのである。
婚礼の日、マリーがたたずんだフランドルの曇天の下には、単なる祝祭を超えた政治の駆け引きが渦巻いていた。花嫁衣裳の重み、それは領土と民と未来を背負った一族の印であった。
(マリーとの対面)
その後もハプスブルク家は、この「婚姻による版図拡大」を一族の伝統戦略として継承していく。外交は剣の代わりとなり、王家の婚礼は国境線を変える政治劇となった。
カール5世、世界を継ぐ
1500年、フィリップとフアナの間に生まれたのが、後のカール5世である。
彼は父フィリップからブルゴーニュとネーデルラントを、母フアナからはスペインとナポリ、さらには新大陸の領地を継承する立場となり、やがて祖父マクシミリアンの死によって神聖ローマ皇帝の位までも受け継ぐ。
まるで世界中の王冠が一つの血筋に吸い寄せられたかのように、領土はカールの足元に集まった。
(カール1世の家系図)
若き皇帝の試練と孤独
カールの帝冠は、祝福ではなく重責だった。
広大すぎる領土、多民族、宗教分裂、内外の戦争。若き皇帝は、そのすべてを一人で背負うことになった。「太陽の沈まぬ帝国」が誕生したその日から、カールには安息の時間などなかった。
彼はその生涯の大半を戦争と統治に費やした。ドイツではルター派の拡大に苦しみ、フランスとは断続的な戦争を繰り返し、地中海ではオスマン帝国との対立が続いた。
だが、彼が手にしたのは武力による征服ではなく、婚姻を起点とした継承による「世界の統合」であった。
帝位に座しながらも、彼の胸に去来していたのは孤独だったかもしれない。全てを受け継ぎ、全てを守らなければならないという運命。それこそが、ハプスブルク家の血に刻まれた宿命だった。
フェルディナント1世、ハンガリーを得る
婚姻政策の成功は、カール5世の弟フェルディナント1世にも及んでいた。
(フェルディナント1世までの家系図)
彼はラヨシュ2世の妹であるハンガリー王女アンナと結婚していたことで、1526年「モハーチの戦い」でラヨシュが戦死したのち、ハンガリーとボヘミアの王位を請求し、選出される形でその地位を得た。
とはいえ、ハンガリー王国は分裂状態に陥っており、西部と北部をフェルディナントが支配し、中央と東部はオスマン帝国やヤノシュ・ザーポリャイが掌握していた。
これにより、ハプスブルク帝国は新たな戦線を抱え込み、対オスマン戦争が長期化してゆく。このようにして、ハプスブルク家の婚姻は、単なる縁談ではなく、戦場と宮廷を結ぶ戦略そのものだった。
結婚政策の代償──近親婚と断絶の危機
すべての政策には代償がある。
婚姻による統合を続けた結果、ハプスブルク家は深刻な近親婚の問題を抱えることになる。血筋の純潔を守るがゆえに、血が濃くなりすぎたのだ。
実際、スペイン・ハプスブルク家では、叔父と姪、またいとこ同士といった結婚が繰り返され、世代を重ねるごとに“血”が凝縮されていった。
(スペインハプスブルク家の家系図)
それは一種のジレンマだった。他家と血を交えることで政治的安定を失う恐れがあり、内部で閉じることで血統の危機を招いた。
閉ざされた血の果てに
スペイン・ハプスブルクの末裔カルロス2世は、重い身体的障害と知的障害に苦しみ、ついに跡継ぎを残さぬまま死去。これがスペイン継承戦争の引き金となり、結果としてハプスブルク家はスペインを失う。
彼の系譜をたどれば、ハプスブルクの「結婚戦略」の成れの果てが見えてくる。血は繋がれたが、王朝の力は削られていったのである。
その死は、あまりに静かだった。だが、その余波はヨーロッパ全体を巻き込む戦乱となって現れる。あまりにも華麗で、あまりにも脆かった“婚姻帝国”の末路だった。
まとめ
カール5世の晩年、彼はすべての王冠を手放し、スペイン南部のユステ修道院へと隠棲する。自らの帝国があまりにも巨大で、一人の人間が支えられるものではないと悟ったのだ。
だが、彼の統治が残した影響は計り知れない。その後もハプスブルク家は、オーストリアを中心に帝国を保ち続けたが、婚姻政策は徐々にその魔力を失っていく。
近代国家の台頭とナショナリズムの波が、血縁による支配を押し流していったからだ。
それでも、「剣を抜かぬ帝国」としてのハプスブルクの姿は、ヨーロッパ史の中でひときわ異彩を放っている。人間の欲望と計算、そして運命が交錯するその系譜は、今も静かに語り継がれているのである。
さらに詳しく:
📖 カルロス2世|呪われた王とスペイン・ハプスブルク家の終焉
📖 ハプスブルク顎とは | 王家の血統を守った代償と悲劇
📖 『ラス・メニーナス』の王女|ハプスブルクの血に縛られた少女の肖像
参考文献
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『図説 ハプスブルク家』河出書房新社
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Brady Jr., Thomas A., German Histories in the Age of Reformations, Cambridge University Press, 2009
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高橋弘道『カール五世――ハプスブルク帝国の栄光』講談社現代新書
- Alvarez, G., et al. (2009). “The Role of Inbreeding in the Extinction of a European Royal Dynasty.”
- Archivo General de Simancas(スペイン王室公文書館)
- 名画で読み解くハプスブルク家12の物語 中野京子
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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