それは、王冠を奪いに来た者たちの咆哮に、若き母が震えることなく立ち向かった瞬間だった。夫も軍も、まだ頼りにはならない。
あるのは「ハプスブルクの娘」であるという、誇りだけ―。
(少女時代のマリア・テレジア)
マリア・テレジア、二十三歳。帝国は崩壊寸前、だがこの女は、戦う覚悟を決めていた。
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父帝、カール6世の死
カール6世に男子なし。神聖ローマ皇帝が女の子に後を継がせるという前代未聞の「布告」を出した瞬間から、帝国は不穏に揺れ始めた。
その布告――国事詔書(こくじしょうしょ)は、娘マリア・テレジアへの継承を正当化するものであったが、諸国の多くはこれを“方便”と見抜いていた。
男児の不在。王位の正統性の希薄さ。これはハプスブルクに牙をむく絶好の口実だった。
それでも、1740年、父の死により即位したマリア・テレジアは、24歳の若さで帝国の運命を背負うこととなった。だが、その戴冠式が終わる間もなく、彼女に襲いかかるのは、戦争の嵐であった。
戦場で試された帝位の正統性
オーストリア継承戦争。男児を産めぬことで王位に立てぬとされていたその時代、テレジアは「女である」という一点だけで戦争を仕掛けられた。
プロイセン、フランス、スペイン、バイエルン、ザクセン……。彼女は孤立し、頼れるのはわずかな味方と、若き自分自身の決意だけだった。
それでも彼女は退かなかった。
ハンガリー議会で涙ながらに兵を募り、夫フランツを神聖ローマ皇帝に据えることで、ハプスブルクの帝位を回復。列強の包囲をかいくぐり、最終的には講和を勝ち取った。
しかし、シュレージエンの喪失という現実は、彼女に深い挫折をもたらすこととなる。
(18世紀前半の地図)
改革の炎を灯した“敗北”
この苦い敗戦が、彼女を「改革者」へと変貌させた。
テレジアは、戦争のただなかで改革の必要性を痛感する。戦時中であっても、行政機構を再構築し、財政・軍制・教育・司法・医療・教会にいたるまで、国家機構のすべてを見直した。
内政にはハウクヴィッツ、軍事にはダウン、外交にはカウニッツ。三傑を抜擢し、命を預けた。とくに注目すべきは、徴兵制と教育改革である。
国民全体を戦力と見なし、徴兵制を整え、全国に軍事庁を配置。さらに小学校の義務教育を開始し、読み書きと計算を万人に施す近代国家としての地盤を固めた。
この「すべての子を教育する国家」こそ、彼女が築こうとした新しい帝国像だった。
外交革命と婚姻戦略
戦場でプロイセンを倒せないと知ったとき、彼女は剣を筆に持ち替える。外交で宿敵を追い詰める道を選んだ。
カウニッツの進言により、従来の英墺同盟を解消し、仇敵フランスとの同盟、「外交革命」を成し遂げる。
フランス、ロシアとともに「三枚のペチコート同盟」を組み、七年戦争へと突入。戦局では優勢に立つも、最終的にまたしてもシュレージエンを奪還することは叶わなかった。
(3枚のペチコート作戦 図解)
だが、政略結婚によりハプスブルクは再びヨーロッパ王家の中心に座し、文化・宗教・言語の多様性を抱えた広大な帝国の連携を保った。
晩年と遺言
マリア・テレジアは16人の子を産み育てながら、帝国を動かし続けた。
皇后としての地位を夫に譲ったのちも、事実上の統治者として君臨し、誰よりも国を知り、誰よりも国家に尽くした。
1780年11月、彼女は63歳で没す。戴冠から四十年――その胸に去来したのは、子か、国か、信仰か。それは、彼女だけが知っている。
その死は決して終わりではなかった。
女帝の重さと孤独
彼女が結んだ縁談のひとつ、末娘マリー・アントーニア、のちのマリー・アントワネットは、フランス王家へと送り出された。
(王妃となったアントワネット)
これは、フランスとの関係改善を狙った政治的婚姻であり、母・マリアのしたたかな戦略の成果でもあった。しかし、フランス革命の嵐のなかで、王妃アントワネットは“異邦の女”として憎悪され、ついには断頭台に消えた。
帝国を守った母と、王国を壊された娘。その対比は、マリア・テレジアの遺産が時に悲劇を生むことを、歴史に刻みつけたのである。
けれど、まだそれは少し先の話である。
まとめ
オーストリア継承戦争に始まり、七年戦争、外交革命、改革の奔流まで、マリア・テレジアの治世は戦いの連続だった。だがそれは剣によるものだけでなく、法と教育と外交という“静かなる戦場”でもあった。
「女帝」の誕生は、帝国を危機に陥れた。しかし、彼女はその身をもって、母として、統治者として、新たな国家像を築き上げたのである。
その後を継ぐのは、息子ヨーゼフ2世。そして、帝位はやがて再び夫フランツの血筋へと還る。
さらに詳しく:
📖 フランツ1世|影に徹した皇帝、女帝を支えた愛と忍耐
📖 オーストリア継承戦争とは?|国事詔書が引き裂いたヨーロッパ
📖 マリー・アントワネットと子供たち | 王妃と子女が迎えた悲惨な最後
参考文献
- Ingrid Mittenzwei, Maria Theresia, Leipzig: Koehler & Amelang, 1983.
- Karl Vocelka, Maria Theresia. Die Macht der Frau, Wien: Ueberreuter, 2000.
- Barbara Stollberg-Rilinger, Maria Theresia: Die Kaiserin in ihrer Zeit, München: C.H. Beck, 2017.
- Johann Christoph Allmayer-Beck, Die k.u.k. Armee 1848–1914, Wien: Verlag Militaria, 2002.
- 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書)
- 高橋一郎『オーストリア史』(山川出版社)
- デレク・ビーヴァー『マリア・テレジアとその時代』(翻訳:白水社)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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