地図で見るハプスブルク家の支配域 | ヨーロッパ650年を動かした領土のすべて

中世から近代にかけて、ヨーロッパ地図の“色”を塗り替え続けた王朝がある。

それが、ハプスブルク家である。彼らの領土は一か所にとどまらず、結婚政策と戦争を通じて拡大・変容し、やがて「太陽の沈まぬ帝国」とまで称された。

本記事では、各時代のハプスブルク家の領土変遷を、地図とともに視覚的に辿る。

※以下の地図は、信頼できる歴史資料に基づき筆者が作成したものです。最下部に参考文献を記しております。)

第1章|1273年:帝国に登場した無名の家門

Habsburg territories in the 13th century

ハプスブルク家の歴史は、1273年のルドルフ1世の即位から本格的に始まる。

1273年、ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことで、名もなき伯爵家だったハプスブルク家は一躍、帝国の中心に躍り出る。

この時点での支配域は、現在のスイス北東部〜オーストリア西部にすぎない。 だが、この小さな領地こそが、後にヨーロッパ全土を巻き込む「地図の連鎖反応」の起点となる。

さらに、1278年のマルヒフェルトの戦いで、ハプスブルク家は当時の強国ボヘミア王国のオタカル2世 (オットー2世)を破り、オーストリアを含む広大な領土を手に入れた。この勝利によって、帝国東部での足がかりを確保することに成功した。

第2章|1526年:ドナウ流域を支配せしめた婚姻と戦争

16th century: Map of Charles V's power

1526年、ハプスブルク家に転機が訪れる。 モハーチの戦いでハンガリー王国を制し、同時にボヘミア王位も継承。 この結果、現在のハンガリー・チェコ・スロバキア・クロアチアなどが一挙に支配域に加わった。

加えて、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はスペイン王位をも継承しており、 この時代、ハプスブルク家は「中欧」と「西欧」と「新大陸」をつなぐ超国家連合を形成していた。

地図には、ヨーロッパの東西をまたぐ一族の領土が広がり、 まさに「太陽の沈まぬ帝国」の名にふさわしい拡張のピークが描かれている。

第3章|1556年:ふたつのハプスブルク、世界を分ける

帝国の分離 地図 (二つに別れた帝国)

カルロス1世の退位に伴い、ハプスブルク家は2系統に分かれた。

  • スペイン系:フェリペ2世が継承(スペイン、ネーデルラント、ナポリ、南米など)
  • オーストリア系:フェルディナント1世が継承(神聖ローマ帝国、中欧)

この分裂は一族の衰退ではなく、むしろ「ヨーロッパの両翼を担う構造」の誕生であった。

フェリペ2世のもと、スペイン・ハプスブルク家の支配はヨーロッパを超え、中南米の植民地だけでなく、フィリピンや東南アジアの一部にも及んだ。

こうしてハプスブルク家は名実ともに「太陽の沈まぬ帝国」の座を築き上げた。 当百科の地図では、分裂によってむしろ領域が拡大したかのような皮肉な構図が可視化されている。

第4章|1700年:王朝断絶と、再びヨーロッパを巻き込んだ戦争

スペイン継承戦争後のハプスブルク領 (1713年の地図)

スペイン・ハプスブルク家が断絶すると、ブルボン家が王位を主張し、 これに異を唱えたオーストリア・ハプスブルク家との間で勃発したのが「スペイン継承戦争」である。

戦後、スペイン本土こそ失ったが、オーストリアはナポリ・ミラノ・南ネーデルラントを再び獲得。 地図には、戦争の勝利によって“地図が修復される”さまがくっきりと描かれる。

第5章|1867年:分裂を防ぐ「二重帝国」という賭け

 19世紀初頭のハプスブルク領 (ウィーン会議後の地図)

19世紀、ハプスブルク家の支配は音を立てて揺らぎはじめていた。 ナショナリズムの嵐、プロイセンの台頭、そして帝国内部から湧き上がる多民族の独立要求――。

打開策として選ばれたのが、オーストリア=ハンガリー二重帝国という仕組みだった。

1867年、フランツ・ヨーゼフ1世は妥協を受け入れ、帝国をふたつに割った。 西の「オーストリア帝国」と、東の「ハンガリー王国」。 両国は別々の憲法と議会を持ち、皇帝だけを共有する体制となった。

地図に映るこの帝国は、もはや「国家」という言葉では収まりきらない。 13の言語、20以上の民族、ふたつの首都――その全体像は、ひとつの地図では足りないほどだった。

第6章|1918年:帝国の終焉、そして地図の解体

20世紀初頭のハプスブルク領 (第一次世界大戦時)

第一次世界大戦は、帝国にとどめを刺した。

長く綱渡りを続けてきた多民族国家は、敗戦によって一気に崩壊。 1918年、フランツ・ヨーゼフの死からわずか2年後、ハプスブルク帝国は姿を消した。

その後に残されたのは、“帝国のかけら”から生まれた新しい国家たちである。

オーストリア共和国、ハンガリー王国(王なき王政)、チェコスロバキア、ユーゴスラヴィア…… かつてひとつにまとめられていた地図は、モザイクのように塗り替えられた。

けれど、線が引かれても、名が変わっても――その記憶は、地図のなかに残りつづけている。

まとめ

ハプスブルク家とは、ただの王朝ではない。 それは「地図という物語」を書き換えつづけた、一族の手による650年の記録である。

このページに並ぶ6枚の地図は、単なる支配の記録ではない。 戦争の跡、婚姻の契り、そして国家という幻想が作られ、壊れていった痕跡だ。

地図を見ることは、歴史を“見る”ことだ。

それは時に言葉より雄弁に、過去を語ってくれる。あなたの中のヨーロッパ地図が、少しでも塗り替えられていたなら―― このページの地図は、役目を果たしたと言えるだろう。

さらに詳しく:
📖 ハプスブルク家の家系図でたどる、650年の王朝史
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
📖 ハプスブルク家ってなに?初心者のためのQ&A10選

参考文献
  • German History in Documents and Images
  • The Growth of the Habsburg Empire 1282–1918
  • Habsburg Lands c.1700
  • Die Welt der Habsburger(オーストリア国営歴史ポータル) 
  • Euratlas Historical Maps 
  • Josephinian Land Survey(1763–1787)Austrian National Archives, Vienna
  • Philips’ New Historical Atlas for Students(1911年、英国)
  • 1章の地図 参考文献:名画で読み解く ハプスブルク家12の物語  中野 京子 (光文社新書)
  • 2〜6章の地図 参考文献:ハプスブルク帝国 岩崎周一著 (講談社現代新書) 
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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