血と冠の分かれ道|レオポルト1世とハプスブルク分岐の決断

死のにおいが街を包む。ペストで黒く染まったウィーンに、さらに迫るのはオスマンの大軍。そのとき、皇帝は城にあらず、遠く離れた地で祈っていた。

――帝国のため、神の意志のために。

Leopold I (レオポルト1世)

顔は不恰好でも、その魂は鋭利だった。レオポルト1世、運命の岐路に立った最後の調停者である。

この記事のポイント
  • 1679年、ウィーンをペストが襲い、人口の一割が命を落とした
  • オスマン帝国がウィーンを包囲し、帝国存亡の危機に陥るも救援を得て回避
  • スペイン継承戦争を経て領土を拡大し、ハプスブルクの権威を回復した

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血と冠の分かれ道

スペインとオーストリア。ふたつの王国に分かれたハプスブルク家は、分裂してなお密接だった。というのも、血はつながりすぎていたのだ

――あまりにも近く、あまりにも濃密に。

レオポルト1世は、スペイン王フェリペ4世の娘マルガリータと結婚し、その義弟カルロス2世の後継問題に深く関与する。

レオポルト1世の家系図 (カルロス2世は義理の弟) (家系図と相関図)
だが、その「血の継承」は、やがてヨーロッパ全体を揺るがす大戦へと発展していく。そしてこの分岐において、レオポルトは決断を迫られることになる。

皇帝即位、その背後にフランスの影

本来、レオポルトは皇帝の器ではなかった。

兄が急逝し、父帝フェルディナント3世も崩御。継承者なきまま、帝位は空席となった。神聖ローマ帝国の皇帝は選挙で決まる。

――それを見逃さなかったのがフランス宰相マザランである。

バイエルン候に資金を与え、レオポルトの対抗馬として擁立しようとしたが、その目論見は崩れる。候補者自身が辞退したのだ。こうして、レオポルトは半ば消去法的に皇帝となる。

だがその日から、彼の治世は常に「フランスの圧」に晒されることとなる。太陽王ルイ14世との果てしない綱引きが、すべての政策の裏で蠢いていた。

ペストと第二次ウィーン包囲

1679年、ウィーンはペストに飲み込まれた。10万人のうち、1万人が死んだ。街は沈黙し、鐘の音すら哀れを誘った。

だが災厄はこれで終わらなかった。わずか4年後の1683年、オスマン帝国の大軍がウィーンの丘に現れる。第二次ウィーン包囲である。

天幕2万、兵力12万。対するウィーンの守備兵はわずか1万6千、しかも3万人の富裕層市民は早々に逃げていた。

神罰と異教

皇帝レオポルトは、あえてウィーンに残らなかった。逃亡ではない。彼はリンツに拠点を移し、ヨーロッパ全土を動かす救援外交に打って出たのだ。

ポーランド王ソビエスキ、神聖ローマ諸侯、ロートリンゲン公カール、教皇インノケンティウス11世――まさに「キリスト教世界の同盟軍」が誕生した瞬間であった。

9月12日、救援軍はワイン畑の丘で激突。これが「ワイン畑の戦い」である。12時間にわたる死闘の末、トルコ軍は壊走。ウィーンは奇跡的に救われた。

ワイン畑の戦い (図解) (ワイン畑の戦い 図解)

バロックの皮、勤勉の中身

レオポルト1世には「バロック皇帝」の異名がある。シェーンブルン宮殿の建築、2年にわたる結婚式の祝宴、贅を尽くした音楽と舞踏――

だが、その見た目の煌びやかさとは裏腹に、彼の内面は極めて実直で、質素だった。

即位時に掲げた座右の銘は「思慮と勤勉をもって」。戦争と外交、宗教問題に疲れ果てたヨーロッパにおいて、この冷静さこそが、彼を時に「無口な救世主」と呼ばせるゆえんである。

血の分岐、そして冠の争奪

そして訪れる、最大の試練――スペイン継承戦争。カルロス2世は虚弱のまま後継者を残さず崩御。レオポルトは、孫のヨーゼフ・フェルディナントを推すが、少年は夭折。

ルイ14世は自らの孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として送り込み、「ピレネー山脈はもはや存在しない」と宣言した。

レオポルトはこれに対抗し、イングランド、オランダと共に「対フランス大同盟」を結成。1701年、戦争が勃発した。だが彼に残された寿命はあとわずか。その前年、彼はある最後の賭けに出ていた。

プロイセン王の承認――沈黙の外交、最後の一手

1700年、レオポルトはブランデンブルク選帝侯と密約を交わす。兵力8000を差し出す代わりに、「プロイセン王フリードリヒ1世」の称号を承認するというものである。

この一見譲歩とも取れる行為は、実は巧妙だった。選帝侯を「王」と認めるのは、ローマ皇帝である自分だけ――

彼は名誉と威信の一点で、帝国の象徴性を保ったのだ。かつての「調停者」の魂が、最後に放った見えざる剣であった。

まとめ

レオポルト1世。顔はハプスブルク家の系譜を体現し、声は決して高ぶらなかった。だがその決断力、忍耐力、そして静かな気迫は、スペインとオーストリアの間に引かれた見えざる血の境界線を、見誤ることはなかった。

ペストの黒死から、三日月の包囲、バロックの虚飾、王冠の継承争い――そのすべてを生き抜いた彼は、ハプスブルク家の「分岐点」にして、静かなる礎石であった。

混乱の時代にあって、何よりも尊ばれるべきは、派手な勝利ではない。――「思慮と勤勉」。その言葉通りに、帝国を支えた男の肖像である。

さらに詳しく:
📖 マルガリータ・テレサ|ハプスブルクの血に縛られた少女の肖像
📖 三十年戦争とは | ハプスブルク帝国を揺るがせた宿命の戦い
📖 カール6世|マリア・テレジアにすべてを託した父帝

参考文献
  • 菊池良生『ハプスブルク帝国』講談社現代新書
  • P. H. Wilson, The Holy Roman Empire: A Thousand Years of Europe’s History, Penguin
  • Henry Kamen, Empire: How Spain Became a World Power
  • Geoffrey Parker, Europe in Crisis: 1598–1648, Wiley-Blackwell
  • 市川裕美子「レオポルト1世と第二次ウィーン包囲」『オーストリア史研究』第18号(2018年)

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