レオポルト1世は、ハプスブルク家の皇帝として神聖ローマ帝国を統治し、オスマン帝国やフランスとの戦争を通じて領土を拡大し、帝国の再興に尽力した。
また、彼の治世においてウィーン・バロック文化が華やかに花開いた。
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基本情報
称号 | 神聖ローマ皇帝 |
オーストリア大公 | |
ハンガリー王 | |
ボヘミア王 | |
出生 | 1640年6月9日(ウィーン) |
死去 | 1705年5月5日(ウィーン) |
享年 | 64 |
治世 | 1657年〜1705年(神聖ローマ皇帝) |
伴侶 | マルガリータ・テレサ |
クラウディア・フェリーツィタス | |
エレオノーレ・マグダレーネ | |
子女 (※) | マリア・アントニア |
ヨーゼフ1世 (後継者) | |
マリア・エリーザベト | |
レオポルト・ヨーゼフ大公 | |
マリア・アンナ | |
マリア・テレジア大公女 | |
カール6世 | |
マリア・ヨーゼファ大公女 | |
マリア・マグダレーナ大公女 | |
父親 | フェルディナント3世 |
母親 | マリア・アンナ・オブ・スペイン |
前任者 | フェルディナント3世 |
後継者 | ヨーゼフ1世 |
(※) 3度の結婚で16人の子をなしたが、10人は成人しないまま病没
人物の背景
レオポルト1世は、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世とスペイン王女マリア・アンナの間に生まれた。幼少期から神学と音楽に深い関心を持ち、当初は聖職者の道を志していたが、兄フェルディナント4世の早逝により皇位継承者となった。
(レオポルト1世の家系図)
彼の治世は、「ハプスブルク家の権威回復」と、「フランスおよびオスマン帝国という二大勢力との対峙」に大きく費やされた。特にバロック様式の発展を促し、ウィーンを文化の中心地へと成長させた点が特筆される。
治世で起きた主要な出来事
- 大トルコ戦争(1683年〜1699年)
オスマン帝国のウィーン包囲を撃退し、神聖同盟軍とともにオスマン帝国に対抗。1697年、レオポルト1世によってハンガリー方面総司令官に任命されたプリンツ・オイゲンがセンタの戦いでトルコ軍に壊滅的打撃を与えた
- スペイン継承戦争(1701年〜1714年)
スペイン・ハプスブルク家の断絶に伴い、フランスのブルボン家と王位継承を巡って争う。レオポルト1世は息子カール大公の王位継承を主張し、戦争に参戦した
- ウィーン・バロックの発展
ルイ14世のヴェルサイユに対抗する形でウィーンの都市改造を進めた。シェーンブルン宮殿の造営を急ピッチで進め、ハプスブルク家の絶対主義を象徴する建築文化を形成した
レオポルト1世とスペイン王女マルガリータとの結婚の祝宴は、足掛け2年続いた。
それはルイ14世のヴェルサイユの祝宴をも凌ぐ規模で、ヨーロッパ最大の祝宴となった。この壮大な祝宴と文化政策こそが、彼が「バロック大帝」と称される所以である。
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