1500年、フランドルのガンに生まれた少年は、やがて世界帝国の頂点に立つことになる。
(カール5世の肖像画)
だが、その玉座に座るまでに得たものは、栄光と共に、数え切れぬほどの喪失と孤独だった。カルロス1世──太陽の沈まぬ帝国の始祖。
その若き皇帝の歩んだ運命は、果たして幸福だったのか。
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この記事のポイント
- 1500年、マクシミリアン1世の孫として誕生し帝国の遺産を継承する
- 1519年、神聖ローマ皇帝カール5世として即位と統治を開始、その後スペイン王も継承 (カルロス1世)
- 1556年、帝位を弟へ譲り修道院で静かな晩年を過ごす
太陽の遺産を受け継いだ子
カール5世 (スペイン王としてはカルロス1世) は、父フェリペ大公と母フアナ王女の間に生まれた。
父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男、母はスペイン・カトリック両王の娘である。両家から彼が受け継いだのは、ブルゴーニュ公国、神聖ローマ帝国、スペイン王国、そしてアメリカ大陸の広大な新領土。
その遺産はまさに「太陽の沈まぬ帝国」と呼ぶにふさわしいものだった。
だがこの壮麗な遺産は、血と涙の上に築かれていた。
叔父フアンは婚礼の最中に急死し、姉イザベルも産褥で命を落とした。母フアナは次第に正気を失い、夫フェリペの突然死をきっかけに深い精神の闇へと沈んでいく。
玉座への道は、まさに死と狂気に彩られていた。
幽閉の城で見た母
1517年、17歳のカルロスは、姉エレオノールと共にスペインに上陸する。ようやく手に入れた王冠の初仕事は、幽閉された母との再会だった。
トルデシーリャス城に閉じ込められたフアナ王女。
かつては輝かしき王家の血筋を誇ったその姿は、すでに人々の前に現れることすら許されぬ存在となっていた。母のそばには、10歳の妹カタリーナだけが寄り添っていた。
狂気に満ちた母を支え続ける幼い娘。カルロスはその光景に心を締めつけられ、カタリーナを連れ出そうとするが、母は激しく錯乱し、城を騒然とさせた。
王とは、孤独に耐える者なのか──その問いは、すでにこの少年王の心に根を下ろしていた。
フランドルとスペインのあいだに
スペイン王として戴冠したカルロスは、異国の君主として反発を招いた。
国内では「外国人支配」への怒りが爆発し、1519年には都市同盟「コムネロス」の反乱が勃発する。一方、同年に祖父マクシミリアン1世が死去。
カルロスは神聖ローマ皇帝選挙に名乗りを上げ、金と外交を駆使して皇帝の座を勝ち取る。皇帝カール5世──このとき、彼はまだ19歳にすぎなかった。
だがその肩には、ヨーロッパの半分と、はるか新大陸まで広がる王国が重くのしかかっていた。
弟フェルディナンド──もうひとりの「私」
カルロスには、運命を分け合う弟がいた。フェルディナンド。精神を病んだ母のため、兄弟は幼少期から引き離され、それぞれ別の国で育った。
だが、再会した二人は互いに深い信頼を寄せるようになる。
帝国の東方、ドイツ、ボヘミア、ハンガリーはフェルディナンドに委ねられ、カルロスはより西側と対峙していく。フェルディナンドは忠実な副官であり、もしかすれば、カルロスが“自分でありたかったもう一人の自分”だったのかもしれない。
やがて、カルロスの子孫がスペイン・ハプスブルク家を、フェルディナンドの子孫がオーストリア・ハプスブルク家を継ぎ、それぞれが二つの世界帝国を率いていくことになる。
(家系図)
帝国の光と影
カルロスが夢見たのは、「普遍帝国」だった。
すなわち、カトリックの信仰のもとに、欧州をひとつにまとめるローマ帝国の再現である。だが現実は過酷だった。
ルターの登場によって宗教改革が勃発、帝国は宗派で分裂し、異端と戦うたびに財政は傾き、民衆の不満は募るばかり。
加えて、フランス王フランソワ1世、オスマン帝国のスレイマン1世という二大強敵と覇権を争い、帝国は常に戦いに明け暮れた。彼が座した玉座は、決して安寧の場ではなかった。
隠棲と「終わらなかった祈り」
カール5世は、晩年をユステの修道院で静かに過ごした。1556年、帝位をフェルディナンドへ、スペインと新大陸を息子フェリペ2世に譲り、政治の舞台から去った。
伝説によれば、隠棲後の彼は自らの葬儀を生前に執り行わせ、十字架の前でひとり、神に赦しを乞いながら祈りを捧げ続けたという。
広大な帝国を統べた男が、最後に求めたのは、静けさと魂の安息だった。
まとめ
カルロス1世──太陽の沈まぬ帝国の創始者、その輝きは歴史に燦然と刻まれた。
しかし、その栄光の裏には、幼少期の喪失、母の狂気、国民の反発、戦争の疲弊、そして信仰との葛藤があった。
彼の人生は、あまりにも広大すぎた帝国に翻弄された、一人の王の孤独な闘いであった。だがその孤独の果てに、彼は人間としての祈りを捧げることで、帝国の主としてではなく、ひとりの魂として静かに幕を引いたのである。
さらに詳しく:
📖 第一次ウィーン包囲とは|オスマンの野望とハプスブルクの試練
📖 ヴェストファーレン条約とは?ハプスブルク家の衰退とフランスの台頭
📖 アウクスブルクの和議とは?|帝国の分裂を認めた妥協の行方
参考文献
- Carlos V: una biografía (Manuel Fernández Álvarez)
- Karl V.: Der Kaiser und die Reformation (Heinz Schilling)
- 『世界の歴史10 スペイン・ハプスブルク』(講談社)
- 村上陽一郎訳『カール五世の手紙』(岩波書店)
- Harold B. Johnson, “Charles V: The World Emperor”
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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