ヨーゼフ2世は、マリア・テレジアの長男として生まれた。神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家の当主として複合国家の近代化に挑んだ啓蒙君主である。
宗教・行政・言語などの多岐にわたる改革を推し進めたが、反発と孤独のなかで多くを成し遂げられぬまま世を去った。「善意を持ちながら何事も成し遂げられなかった者」という墓碑銘が、彼の理想と現実のギャップを象徴している。
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基本情報
主な称号 | 神聖ローマ皇帝 |
オーストリア大公 | |
ボヘミア王 | |
ハンガリー王 | |
クロアチア王 | |
スラヴォニア王 | |
ガリツィア・ロドメリア王 | |
出生 | 1741年3月13日(ウィーン) |
死去 | 1790年2月20日(ウィーン) |
享年 | 48 |
伴侶 | イザベル・ド・パルマ |
治世 | 1765年8月18日 〜 1790年2月20日 |
伴侶 | イサベル・デ・パルマ(早世) |
マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン(子無し)
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子女 | マリア・テレジア(早世) |
クリスティーナ(早世) | |
父親 | フランツ1世(神聖ローマ皇帝) |
母親 |
マリア・テレジア(ハプスブルク家当主)
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前任者 | フランツ1世(神聖ローマ皇帝) |
後継者 | レオポルト2世 |
人物の背景
(ヨーゼフ2世の家系図)
オーストリア継承戦争のさなかに生まれたヨーゼフ2世は、ハプスブルク家の希望の男子として迎えられた。母との共同統治を経て単独統治者となり、啓蒙思想に基づく理想を掲げて神聖ローマ帝国とハプスブルク君主国の改革に着手した。
「人民の皇帝」「農民の皇帝」とも呼ばれ、地方視察や民衆との対話を通じて直接声を聴くことを重視した。
検閲緩和、宗教寛容令、修道院改革、義務教育、病院設立など数多くの政策を実行に移したが、特権階級からの強い抵抗に遭遇。晩年には多くの改革を自ら撤回せざるを得なかった。
治世で起きた主要な出来事
- 寛容令(1781年)
プロテスタントやギリシア正教徒に信仰の自由を認め、市民権を与えた画期的な布告。カトリック教会の反発を招くが、宗教的寛容と国家による教会支配の確立を意図していた。
- 修道院整理と社会福祉改革
公益に貢献しない修道院を閉鎖し、没収財産をもとにウィーン総合病院を設立。宗教組織を国家統治の一部として再編しようと試みた。
- 農奴制の制限と農民保護政策
農奴の移動の自由や賦役の制限を図り、経済的自立を促進。とくにハンガリー貴族の強い反発を受けた。
- 言語令(1784年)
ドイツ語を公用語として統一しようとしたが、多言語・多民族国家での強制は各地の反感を招き、ナショナリズムの芽を刺激する結果となった。
- 検閲の緩和(1781年以降)
検閲を緩めて啓蒙思想の流通を促したが、自身への批判も増え、改革への逆風となった。
- 改革の撤回と死去(1790年)
南ネーデルラントとハンガリーで反乱が勃発し、晩年には改革の多くを撤回。改革皇帝は孤独のうちに48歳で逝去した。
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