ヨーゼフ1世は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の長男として生まれ、父の後を継いで帝位に就いた。果断な改革を志すも、天然痘により早世し、短い治世で幕を閉じた。
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ヨーゼフ1世|夭折の皇帝と、継がれなかった改革の夢を読む ▶
基本情報
主な称号 | 神聖ローマ皇帝 |
オーストリア大公 | |
ハンガリー王 | |
ボヘミア王 | |
出生 | 1678年7月26日(ウィーン) |
死去 | 1711年4月17日(ウィーン) |
享年 | 32 |
治世 | 1705年〜1711年(神聖ローマ皇帝) |
伴侶 |
アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
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子女 | マリア・ヨーゼファ |
レオポルト・ヨーゼフ | |
マリア・アマーリエ | |
父親 | レオポルト1世 |
母親 |
エレオノーレ・マグダレーナ・フォン・デア・プファルツ
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前任者 | レオポルト1世 |
後継者 | カール6世(実弟) |
人物の背景
ヨーゼフ1世は、皇帝レーオポルト1世の嫡男として生まれ、早くから帝位継承者として帝国の政治に関与した。
若くして多才で、軍事や行政にも関心を持ち、対仏戦争や国内改革に意欲的だった。彼は英才教育を受け、将来を嘱望される存在だったが、その治世はわずか6年にすぎなかった。
治世で起きた主要な出来事
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スペイン継承戦争の指導(1705年〜)
父レーオポルト1世の後を継ぎ、プリンツ・オイゲンとマールバラ公の連携を支援。カール大公(弟)をスペイン王に擁立し、ヨーロッパの勢力均衡維持を目指した。 -
サトマールの和約(1711年)
ハンガリーでのクルツ党反乱に対し、妥協的な政策を採用。和平派が台頭し、最終的に従来の国制と自由を尊重する条約が成立した。 -
早世による帝位継承の激変
天然痘により急逝したことで、弟カールがスペインと中欧の両方を継ぐ可能性が現実味を帯び、列強は勢力均衡の崩壊を恐れて外交方針を転換。ユトレヒト条約へと向かう転機となった。
ヨーゼフ1世の治世は短くも、ハプスブルク家の国際戦略と対ハンガリー政策において重要な分岐点となった。彼の志半ばでの死は、帝国の運命とヨーロッパの均衡に大きな影響を与えたのである。
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