大空位時代とは何だったのか|王なき帝国が生んだ混乱と再編の序章

王なき帝国──その名は「大空位時代」。

1250年、皇帝フリードリヒ2世の死により、神聖ローマ帝国は突如として“中心”を失った。皇帝とは、神の恩寵を受けて世界を統べる唯一の者とされ、王冠は単なる冠ではなかった。

だが、その冠を戴く者がいない。こうして始まった23年間の空白は、混乱と分裂の時代であると同時に、次なる秩序の胎動の時でもあった。

この記事のポイント
  • 1250年、フリードリヒ2世が死去し帝国が大空位時代に突入
  • 皇帝不在に混乱する中、諸侯が妥協の候補としてルドルフを選出
  • 1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に即位

王なき帝国、分裂する秩序

Great vacancy era (illustrated) (大空位時代(1250〜1273年))

皇帝不在の帝国では、当然のごとく混乱が広がった。

名目上は帝国であっても、実際にはドイツ、イタリア、ブルグントの三つの王国を束ねた連合体であり、その統一は「皇帝」という一本の柱によってかろうじて保たれていた。

フリードリヒ2世の死後、まず次男コンラート4世が帝位を継承するが、わずか4年後の1254年に死去し、その子コンラディンも若くして処刑されたことで、帝国には正式な皇帝がいなくなった。

大空位時代

この「大空位時代(1250〜1273年)」には、複数の王が相次いで名乗りを上げるものの、いずれも諸侯や教皇からの支持を得られず、権威を確立するには至らなかった。

諸侯はこの空白に乗じて、課税権・裁判権・軍事権といった統治の根幹を王権から奪い取り、領邦国家としての自立を強めていく。

そして、この権力闘争のなかで生まれたのが、後に「選帝侯」と呼ばれる七人の最有力諸侯たちであった。

血統ではなく選挙──選帝侯の登場

金印勅書 (図解)

王は神の血を引く者ではなく、選ばれる者になった──それが帝国特有の「選挙王制」である。

マインツ・ケルン・トリーアの三大司教に加え、ボヘミア王、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯が選帝侯として固定化され、王の選出権を握る。

血統主義と並行してこの制度が確立されたのは、王権を牽制するための“切り札”であり、王を強くさせぬための制度的装置であった。

この制度の下で選ばれた王は、強権をふるうどころか、選帝侯の意向に従わなければ即座に廃位される立場に置かれた。実際、ナッサウ公アドルフやヴェンツェルはその権力闘争の渦中で廃位に追い込まれている。

無秩序の中に芽吹く秩序

だが、この時代を「暗黒」と断じるのは早計である。近年の研究では、地域単位での秩序が着実に築かれていたことが明らかになっている。

諸侯たちは自ら「領域平和」を維持し、都市では経済活動が活発化。法と秩序が崩壊したどころか、独自の秩序が醸成されていたのである。フリードリヒ・シラーが「恐ろしい時代」と評した大空位時代は、むしろ帝国の多元性が発展し始めた胎動期ともいえるだろう。

とはいえ、帝国に“軸”が必要とされたことも確かである。

ルドルフの登場──秩序を取り戻す戦士

1273年、新たな十字軍を計画していた教皇グレゴリウス10世の後押しもあり、王位選出の動きが本格化する。候補者にはフランス王フィリップ3世、チェコ王オタカル2世といった大物が名を連ねたが、彼らはいずれも強すぎた。

帝国諸侯の意のままにはならないと見なされたのである。そこで浮上したのが、スイスの地方領主に過ぎなかったハプスブルク伯ルドルフであった。

豪奢な宮廷も持たぬ「貧乏伯爵」は、弱く扱いやすい存在と目された。だが、諸侯の思惑は外れる。選出直後、ルドルフは次々と有力諸侯と婚姻関係を結び、敵対者オタカル2世に圧力を加える。

最終的に1278年、オーストリア・マルヒフェルトの戦場において両者は激突。

Battle of the Marchfeld (map) (マルヒフェルトの戦い)

この「マルヒフェルトの戦い」でルドルフは剣を自ら振るい、ついにチェコ王を打ち破った。この勝利によってオーストリアを獲得したハプスブルク家は、一躍帝国の中心勢力へと躍り出る。

まとめ

大空位時代──それは、皇帝不在という危機が、選挙王制と領邦秩序という“新たなかたち”の国家を生み出した時代であった。

この23年間の空白期には、混乱や分裂の裏で、帝国の政治構造そのものが静かに変質し始めていた。王の神聖さは相対化され、諸侯は地域ごとの秩序を築き上げ、自立性を確保していく。

そして、「選帝侯による王選出」という制度が確立されることで、皇帝の座は血統ではなく“政治の合意”によって生まれるものへと変貌していった。

「王なき帝国」が模索した制度と秩序は、その後のドイツとヨーロッパに深い爪痕と遺産を残していくのである。

さらに詳しく:
📖 金印勅書とは|選挙王制を定めた帝国の憲法
📖 神聖ローマ帝国とは何だったのか|名ばかりの帝国、矛盾の帝国
📖 マルヒフェルトの戦い|ハプスブルク家の勝利と帝国の再統一

参考文献
  • 岩崎周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書
  • Manfred H. Zerner, “Das Interregnum 1250–1273: Studien zur Geschichte des Reiches”
  • Peter Moraw, “Von offener Verfassung zu gestalteter Verdichtung: Das Alte Reich im späten Mittelalter”
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・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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