ヨーロッパ史に大きな影響を与えたハプスブルク家。その650年にわたる歴史は、領地を巡る争いや近親婚による運命の変化、政略結婚を駆使した拡張戦略によって紡がれてきました。
この記事では、ハプスブルク家の家系図を基に、繁栄と衰退の背景を探ります。家系図とともに、この名門家系の全貌を見ていきましょう。
ハプスブルク家の起源と基盤の構築
ハプスブルク家の起源は11世紀、現在のスイスにあたる地域に築かれた「ハービヒツブルク城(鷹の城)」にさかのぼります。この城が「ハプスブルク」の名前の由来となり、一族の発展の基盤となりました。
ルドルフ1世の台頭
13世紀、ハプスブルク家に転機が訪れます。
一族のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選ばれたのです。当時、選帝侯たちは「従順で扱いやすい人物」を選ぶ傾向にありましたが、ルドルフ1世は期待に反し、自身の勢力を拡大することに成功しました。
内紛と一時的な衰退
ルドルフ1世の死後、後継者争いが激化し、一族は内紛に苦しみます。中でも、アルブレヒト1世の暗殺事件は大きな打撃となり、一時的にハプスブルク家の権威は低下しました。
この時期、神聖ローマ皇帝の座も他家に奪われ、一族は表舞台から姿を消します。
政略結婚とハプスブルク家の拡大
15世紀後半、ハプスブルク家を再びヨーロッパの中心に押し上げたのはマクシミリアン1世でした。彼は巧みな政略結婚を駆使し、ブルゴーニュ公国やスペイン王家との血縁関係を築きました。
「たすき掛け結婚」で築いた同盟
マクシミリアン1世は息子フィリップをスペイン王女フアナと結婚させる一方で、スペイン王子フアンと自分の娘マリアを結婚させる「たすき掛け結婚」を実現。
この戦略により、ハプスブルク家はヨーロッパ南部への影響力を強化しました。
スペイン統治と「日の沈まぬ帝国」
16世紀、ハプスブルク家は絶頂期を迎えます。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、ヨーロッパ全土から新大陸まで広がる領地を支配しました。
その広大さから、「日の沈まぬ帝国」と称されるほどの繁栄を誇りました。
オーストリア系とスペイン系の分岐
カール5世の退位後、ハプスブルク家の領地はオーストリア系とスペイン系に分割され、それぞれ異なる運命を歩みます。
スペイン系の断絶
近親婚の影響で健康問題が深刻化し、スペイン系はわずか5代で断絶。王位はブルボン家に引き継がれました。
(メインとなる人物以外を省略)
オーストリア系の繁栄
一方、オーストリア系は神聖ローマ皇帝の地位を保持し続け、18世紀にはマリア・テレジア(女帝)のもとで全盛期を迎えました。
(メインとなる人物以外は省略)
帝国の終焉:第一次世界大戦とハプスブルク家の没落
ハプスブルク家の長き支配は、第一次世界大戦の敗北をきっかけに終焉へと向かっていきます。
オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、多民族国家の分裂が進みました。1919年、オーストリア政府は「ハプスブルク法」を制定し、一族は追放と財産没収を余儀なくされました。
最後の皇太子と現代のハプスブルク家
オットー・フォン・ハプスブルクは、ハプスブルク家最後の皇太子として知られています。彼は皇位継承権を放棄し、政治家としてヨーロッパ統合に尽力しました。
現在もその血筋は続いており、現家長カール・フォン・ハプスブルクが文化的・政治的活動を行っています。
まとめ
政略結婚と巧みな戦略によってヨーロッパの歴史を動かし続けたハプスブルク家。
この記事では、ハプスブルク家を代表する君主たちに焦点をあて、その家系図とともに王朝の栄華と衰退の歴史をたどりました。ヨーロッパの運命を左右したエピソードを通じて、ハプスブルク家の壮大な物語を感じていただければ幸いです。
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