年表でざっくり理解する、ハプスブルク家の歴史

ヨーロッパの歴史にたびたび登場する「ハプスブルク家」。 しかし、いつ始まり、どう広がり、どこで終わったのか――その流れは意外と見えにくい。

本稿では、ハプスブルク家の歴史を7つの時代に分け、要点だけを簡潔に整理した。 まず全体像を把握し、必要に応じて各時代を深掘りする起点として活用されたい。

第1章|無名から王へ(〜1273)

ハプスブルク家の出発点は、スイス北部の小領主である。ドイツ王(=神聖ローマ皇帝の候補)に選ばれたことにより、王朝としての歴史が始まった。

出来事
1020 鷹の城(ハプスブルク城)築城。家名の由来に
1273 ルドルフ1世がドイツ王に選出される(ハプスブルク家の“即位”)

第2章|王朝の確立と拡大(1273〜1452)

一代で終わった王位だが、再び王に選ばれたことで再興し、領地を拡大。オーストリアを拠点とし、神聖ローマ皇帝の地位を世襲する体制が整った。

出来事
1282 オーストリア公に封じられ、以降の拠点となる
1438 アルブレヒト2世がドイツ王に選出(実質的な世襲化の始まり)
1452 フリードリヒ3世が神聖ローマ皇帝に戴冠。以降、ハプスブルクが皇帝位を世襲

第3章|結婚で帝国を築く(1477〜1556)

ブルゴーニュの継承とスペインとの政略結婚により、ハプスブルク家はヨーロッパ最大級の王朝にのし上がった。

出来事
1477 マクシミリアン1世がブルゴーニュ継承(マリーとの結婚)
1496 嫡子フィリップがスペイン王女フアナと結婚
1519 孫のカール5世がスペイン王に即位(同年に皇帝も兼ねる)

第4章|分裂と戦争の時代(1556〜1740)

カール5世の退位後、王朝はスペイン系とオーストリア系に分裂。宗教戦争の時代に突入し、帝国の権威は弱体化する。

出来事
1556 カール5世退位。スペインと神聖ローマの分割が完成
1618 三十年戦争勃発(カトリック vs プロテスタント)
1648 ウェストファリア条約。神聖ローマ帝国の権威が大幅に弱体化

第5章|女帝と改革の時代(1740〜1815)

マリア・テレジアが即位し、近代国家の方向性が打ち出される。ナポレオン戦争が帝国に激震をもたらす。

出来事
1740 マリア・テレジア即位(オーストリア継承戦争)
1765 神聖ローマ皇帝はヨーゼフ2世に
1804 フランツ2世が「オーストリア皇帝」フランツ1世として即位
1806 神聖ローマ帝国が正式に解体(ナポレオンの圧力による)

第6章|近代と帝国の危機(1815〜1914)

ウィーン体制で一時的な安定を得るも、帝国は民族問題・社会変動に揺さぶられる。フランツ・ヨーゼフ1世の治世が始まる。

出来事
1848 三月革命。フランツ・ヨーゼフ即位
1867 オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立
1889 皇太子ルドルフの自死(マイヤーリンク事件)

第7章|第一次世界大戦と終焉(1914〜1918)

サライェヴォ事件をきっかけに帝国は戦争に突入。カール1世の退位とともに、700年の支配は終わりを迎える。

出来事
1914 サライェヴォ事件。第一次世界大戦へ
1916 フランツ・ヨーゼフ死去。カール1世即位
1918 カール1世が退位。ハプスブルク家の支配が終焉を迎える

まとめ

ハプスブルク家は、地方貴族から神聖ローマ皇帝にまで上り詰めた、ヨーロッパ史上類を見ない超長期王朝である。

その特徴は、武力による拡大ではなく政略結婚を駆使して領土と影響力を広げた点にある。

彼らは中世から近代にかけて、神聖ローマ皇帝、スペイン王、オーストリア皇帝を兼ね、政治・宗教・文化・外交すべての領域にわたってヨーロッパを動かし続けた。

やがて時代がナショナリズムと近代戦争へと傾く中、第一次世界大戦によってその巨大な構造は崩壊を迎える。この700年を追うことは、単なる王家の歴史ではなく、ヨーロッパ全体の構造とその変化を理解する鍵となる。

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