14世紀の神聖ローマ帝国—そこは、名ばかりの帝国だった。
皇帝はいた。だが、複数いた。選挙で選ばれるはずのその帝位をめぐり、諸侯たちは私利私欲に動き、帝国は幾度も分裂の危機にさらされていた。
そんな中、1人の男が現れる。ルクセンブルク家の皇帝カール4世。
(皇帝カール4世、ルクセンブルク家)
彼は知っていた。「剣で帝国は救えない。必要なのは、秩序だ」と。
そして彼は決断する。帝国に“ルール”をもたらすことを。それが、のちに帝国の骨組みを変えることになる歴史的勅令、金印勅書(きんいんちょくしょ)である。
この記事のポイント
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金印勅書は、神聖ローマ皇帝の選挙制度を確立した歴史的勅令
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ルクセンブルク家の皇帝カール4世が制定し、選帝侯の権限を強化する一方で、皇帝の権力を弱めた
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ハプスブルク家は選帝侯から排除されることとなり、帝国の権力構造が大きく変わった
混迷の帝国、そして皇帝カールの決断
皇帝の名を持ちながら、誰もが帝国を統べることができなかった時代。選挙で皇帝を選ぶという建前の裏では、買収、陰謀、二重王の乱立、そして血。
神聖ローマ帝国という名の下で繰り広げられていたのは、まさに“皇帝の椅子”をめぐる暗黒のゲームだった。だが、1346年に即位したカール4世は、父ヨハンの敗北を目の当たりにしながらも、冷静だった。
「混沌の中で力を持つのは、ルールを作る者である。」
金印勅書──黄金の印章とともに
1356年。 カール4世は、ついにその勅令を公布する。その名も「金印勅書」。 黄金の印章が押された、帝国史上もっとも有名な憲章のひとつ。
この勅書によって、皇帝選挙のすべてが明文化された。
- 選帝侯は7名と定められる
- 皇帝は多数決(4票以上)で選出される
- ローマ教皇の承認がなくても皇帝戴冠は成立
- 選挙の妨害や無視は、選帝侯の地位剥奪の対象となる
帝国は初めて、“誰が・どうやって”皇帝になるかのルールを手に入れた。
選帝侯という“七人の王”
カール4世が選んだ「皇帝を選ぶ7人の選帝侯」は以下の通り:
- マインツ大司教
- ケルン大司教
- トリーア大司教
- ボヘミア王
- プファルツ伯
- ザクセン公
- ブランデンブルク辺境伯
彼らは皇帝選出の“特権階級”となり、 金印勅書によって以下のような強大な権限を持つことになる。
- 皇帝に干渉されない領内裁判権
- 関税・鉱山採掘権など経済的独立
- 相続時の分割を禁止する「不可分継承」制度
こうして選帝侯は、ほぼ“小国の王”としての地位を確立する。
制度が秩序を生み、秩序が分裂を招いた
カール4世の本音は、ルクセンブルク家の皇帝位の安定だった。 実際、彼は自らがボヘミア王として選帝侯に名を連ね、 さらにはブランデンブルク辺境伯の地位も獲得しようとしていた。
一方で、ハプスブルク家やヴィッテルスバッハ家は選帝侯から除外され、 帝国の中枢から遠ざけられることとなる。
だが皮肉なことに、選帝侯の強化は、皇帝の権力を逆に弱めた。帝国は「皇帝+選帝侯」という構造から、 次第に「選帝侯連合国家」のような様相を呈していく。
ハプスブルク家の逆襲と金印勅書の“裏の効果”
カール4世が残した秩序の仕組み。
それは、一見ルクセンブルク家に有利に思えた。だが、時代が進むにつれ、ある一族がその制度を“利用”しはじめる。 それが、ハプスブルク家である。
金印勅書により排除された彼らは、 その後150年をかけて、婚姻政策と政治力で選帝侯を掌握。ついには、皇帝位を世襲のように独占するまでに成長する。
かつて選帝侯によって縛られた皇帝位が、 いまやハプスブルク家の血筋によって支配される。
まとめ
金印勅書は、神聖ローマ皇帝選挙の明文化という点で、 確かに秩序をもたらした。
だがそれは、皇帝を強くする仕組みではなかった。 むしろ選帝侯という「ミニ皇帝」たちを生み出し、 帝国の実態を“連邦国家”へと変えていったのである。
その中で、ハプスブルク家は沈み、そして這い上がり、 制度を逆手に取って、帝位をものにした。カール4世の決断は、皮肉なことに、 やがてハプスブルク帝国という“もう一つの秩序”を生むことになるのだった。
さらに詳しく:
📖 ルドルフ4世vsカール4世 | 大特許状を巡る帝国最大の駆け引き
📖 選帝侯とは何者か?神聖ローマ帝国における“選ぶ者たち”の権力構造
参考文献
- 『カール4世と金印勅書』
- 『神聖ローマ帝国の政治構造』
- 『ハプスブルク家と帝国の変遷』
- Peter H. Wilson, Heart of Europe: A History of the Holy Roman Empire, Harvard University Press, 2016
- Karl Otmar von Aretin, Das Alte Reich 1648–1806, C.H. Beck, 1993
- Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire, Vol. I-II, Oxford University Press, 2012
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