黄昏のホーフブルク宮殿。老いたフランツ・ヨーゼフ1世が、静かに窓辺に立つ。
「やられた……」その声は、記録に残ることはなかった。だがこの瞬間、オーストリアは“ドイツ”から脱落したのである。
参考文献
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ドイツ統一をめぐり、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」が激突した
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プロイセンのビスマルクは巧妙にオーストリアを排除し、ドイツ帝国を樹立した
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ハプスブルク家は以後“ドイツ”を名乗れず、東欧帝国として再編を迫られた
「ドイツ」のかたちをめぐる戦争
19世紀の民族主義は、まるで火薬のようにヨーロッパを駆けめぐっていた。とくに「ドイツ」と呼ばれる領域は、大小無数の国家に分かれており、統一を望む声は強まる一方だった。
では、どのような「統一」が望まれたのか?
ここで登場するのが2つの主義──
- 大ドイツ主義:オーストリア帝国を含めた「広域ドイツ」構想
- 小ドイツ主義:オーストリアを排除し、プロイセン主導で統一を目指す構想
前者を支持するのは、もちろんハプスブルク家。神聖ローマ帝国の冠を代々受け継いできた彼らにとって、「ドイツ統一」とは自らの正統性を再確認する事業であった。
一方、後者の小ドイツ主義を旗印にしたのが、急成長する軍事国家プロイセン。そして──その戦略の中心にいたのが、鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクである。
「鉄と血」で語られる統一
1866年、ついにプロイセンとオーストリアの直接対決「普墺戦争」が勃発する。
名目はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題だったが、その裏には“ドイツ世界の覇権”をめぐる暗闘が渦巻いていた。結果はプロイセンの圧勝。
(普墺戦争の図解)
この敗北により、オーストリアは翌年ドイツ連邦から追放される。
そしてその後、プロイセン主導で「北ドイツ連邦」が成立。フランスとの戦争(普仏戦争)を経て、1871年、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言されるのである。
しかしそこに、ウィーンの名はなかった。
ハプスブルク家、ドイツからの「追放」
オーストリアが排除されたことは、単なる領土の問題ではない。
中世から「ドイツ皇帝」の座を保持してきたハプスブルク家にとって、これはアイデンティティの剥奪に等しいものであった。
失意のなか、オーストリアは1867年にハンガリーと妥協し、オーストリア=ハンガリー二重帝国へと転換。以後、「ドイツ人の皇帝」ではなく、「多民族帝国の調停者」として新たな道を模索することになる。
まとめ
皮肉なことに、ドイツ帝国の誕生はフランスの王宮ヴェルサイユで宣言された。
それは、かつてハプスブルクが支配した「神聖ローマ帝国」の跡地に、プロイセン=ドイツ帝国という新たな「覇者」が現れたことを象徴する光景だった。
かつてルイ14世が挑み、レオポルト1世が守り抜いた「帝国の秩序」は、すでにその役割を終えていた。ただし、ハプスブルク家の敗北は、「帝国」の終焉ではなかった。
むしろそこから、「帝国以後のヨーロッパ」が始まるのである。プロイセンがドイツ皇帝となり、フランスが共和国へと転落し、ウィーンは多民族の調整地となる。
近代ヨーロッパを形づくる“再編”は、1866年の戦場から動き始めていた──。
さらに詳しく:
📖 スペイン継承戦争とは何か|一人の王の死が引き起こした世界戦争
📖 カルロス2世- 呪われた王とスペイン・ハプスブルク家の終焉
参考文献
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Geoffrey Wawro The Austro-Prussian War: Austria’s War with Prussia and Italy in 1866(Cambridge University Press, 1996)
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James J. Sheehan German History 1770–1866(Oxford University Press, 1989)
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Alan Sked The Decline and Fall of the Habsburg Empire 1815–1918(Longman, 2001)
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David Blackbourn History of Germany, 1780–1918: The Long Nineteenth Century(Wiley-Blackwell, 2002)
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Jonathan Steinberg Bismarck: A Life(Oxford University Press, 2011)
- 図解雑学 ハプスブルク家 菊池良生 ナツメ社
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