フランス革命とは何だったのか?ブルボン家崩壊の衝撃

1793年、パリ。ギロチンの刃が振り下ろされ、王妃マリー・アントワネットの首が籠に落ちた。

Marie Antoinette on the guillotine (マリー・アントワネットの処刑)

その瞬間、フランスはもはや「王の国」ではなくなった。この革命は、王の死にとどまらなかった。国民国家の誕生、君主制の否定、そしてナショナリズムの台頭へ。

それは同時に、ハプスブルク家をはじめとするヨーロッパの旧体制に、決定的な「終わりの鐘」を鳴らす出来事でもあったのである。

この記事のポイント
  • 1789年、バスティーユ襲撃で民衆が蜂起し、フランス革命が勃発する
  • 1793年にルイ16世と王妃が処刑され王政が廃止される
  • 1814年にルイ18世の即位により、ブルボン家が復活し王政が一時的に再建される

「ブルボン家の終焉」はなぜ始まったのか

18世紀末、ブルボン家が統治するフランスは、膨れ上がる財政赤字と民衆の不満を抱えていた。

マリー・アントワネットの贅沢、貴族の特権、庶民の飢え――火種はそこら中に散らばっていた。そして1789年7月14日、バスティーユ牢獄が襲撃される。革命の狼煙が上がった瞬間だった。

だが、革命の矛先は単なる国王への不満にとどまらなかった。

「自由」「平等」「国民主権」という理念が民衆の間に拡がり、もはや王が“慈悲深く改革”するだけでは足りなかったのである。

君主から敵へ|ピルニッツ宣言と開戦

王政の危機を察知したのは、国内だけではなかった。

マリー・アントワネットの実家であるハプスブルク家は、彼女の処遇を通して革命の激しさを感じ取り、1791年にはプロイセンとともに「ピルニッツ宣言」を発表。フランス王家への攻撃が続くならば「軍事介入も辞さない」と宣言した。

この動きに怒りを覚えた革命政府は、翌1792年4月、ついにオーストリアに宣戦布告する。ヨーロッパの旧体制と、新しい民衆国家との「最初の戦争」が始まったのである。

王政の終焉と“国民国家”の誕生

戦争のなかで、ルイ16世の存在はますます「反革命の象徴」となっていく。

国王一家はヴァレンヌでの逃亡に失敗し、タンプル塔に幽閉されたのち、ついに1793年1月にルイ16世が処刑。10月にはマリー・アントワネットも断頭台へと送られた。

 Marie Antoinette being led to the guillotine (断頭台へと向かうアントワネット)

この年、フランスではついに「王政の停止」が正式に決議される。

民衆のなかから「国王陛下万歳」ではなく、「国民万歳」という声が上がり、国家は王の所有物ではなく“国民全体のもの”へと移行した。

ここに、ヨーロッパ近代史上初の「国民国家」が誕生したのである。

ブルボン家の“象徴なき死”

ブルボン家の崩壊は、単なる政権交代ではなかった。

革命政府は、王の象徴である冠、印章、肖像画までも破壊し、「過去そのものを消し去ろう」とした。ルイ17世とされた幼いルイ・シャルルは獄中で死亡し、ブルボン家の“未来”も消えた。

ハプスブルク家との婚姻によって築かれたはずの平和は、皮肉にも王妃アントワネットの血によって終わりを迎えた。これは王朝の滅亡というより、「王という制度そのものの終焉」であった。

まとめ

フランス革命は、単なる政変ではない。

それはブルボン家による絶対王政の終焉であり、君主制という旧体制の崩壊であり、そして近代の始まりでもあった。国民が国家を持ち、自由の名のもとに王を処刑する――

その衝撃は、ヨーロッパ全体を揺さぶった。

だが、革命がすべてを変えたかといえば、そうではなかった。

王政は1814年、ルイ16世の弟ルイ18世の即位によって一時的に復活し、亡命していた王族たちは再びフランスの地を踏む。皮肉なことに、「王を殺した国民」が、再び王を必要としたのである。

革命は一つの時代を終わらせたが、同時に、不安定な「新しい時代」の始まりでもあったのだ。

📖 マリー・アントワネットと子供たち | 王妃と子女が迎えた悲惨な最後

参考文献
  • フレイザー, アントニア『マリー・アントワネット』上・下巻(中公文庫, 2001年)
  • 渡邊昌美『フランス革命と王政の崩壊』(講談社現代新書, 1995年)
  • 川北稔『近代ヨーロッパの誕生』(岩波新書, 2000年)
  • Jean Tulard, La Révolution française(Éditions Fayard, 1980)
  • Albert Soboul, Understanding the French Revolution(Monthly Review Press, 1989)
  • Déclaration de Pillnitz(1791年)
  • Procès de Louis XVI(1792–1793年)

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