18歳という若さで皇帝となり、その後68年もの間オーストリア帝国を支え続けたフランツ・ヨーゼフ1世。戦争や反乱、家族の悲劇といった多くの困難に直面しながらも、まじめに仕事に取り組み、国の安定のために尽くした。
彼の人生は、愛や苦しみ、強さとやさしさが交差する、まさに「ハプスブルク家の最後の花」のようなものだった。
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基本情報
主な称号 | オーストリア皇帝 |
ハンガリー王 | |
ボヘミア王 | |
スアヴォニア王 | |
クロアチア王 | |
スアヴォニア王 | |
ガリツィア=ロドメリア王 | |
ロンバルド=ヴェネト王 | |
出生 | 1830年8月18日(シェーンブルン宮殿) |
死去 |
1916年11月21日(シェーンブルン宮殿)
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享年 | 86 |
治世 | 1848年〜1916年(オーストリア皇帝) |
1848年〜1916年(ハンガリー王) | |
伴侶 | |
子女 | ゾフィー |
ギーゼラ | |
ルドルフ (オーストリア皇太子) | |
マリー・ヴァレリー | |
父親 | フランツ・カール大公 |
母親 | ゾフィー・フォン・バイエルン |
前任者 | フェルディナント1世 (叔父) |
後継者 | カール1世 |
人物の背景
(母ゾフィー大公妃と幼い頃のフランツ)
フランツ・ヨーゼフは、父フランツ・カールと母ゾフィーの長男として生まれた。母ゾフィーはとても頭がよく、息子に厳しく帝王としての教育をおこなった。フランツ・ヨーゼフは若い頃に軍の経験を積み、1848年、18歳で皇帝となった。
彼はすぐに国の内外で多くの問題に直面した。革命や戦争、さまざまな民族の争いなどがありながらも、冷静に、まじめに政治を行い、国の安定に努めた。とても働き者で、毎朝4時に起きて仕事を始めていたと言われている。
一方で、結婚相手であるシシィとの結びつきにはドラマがあった。
1853年、フランツ・ヨーゼフは本来お見合いの相手だった姉ではなく、妹シシィを一目で気に入り、母ゾフィーの反対を押し切って結婚した。これは彼の人生でただ一度、母に逆らった出来事だったと言われる。
治世で起きた主要な出来事
- ハンガリー反乱と暗殺未遂(1849〜1853)
即位直後、ハンガリーでの反乱を軍で鎮圧。その報復とみられる暗殺未遂事件に遭い、重傷を負った。
- 普墺戦争とドイツ連邦からの離脱(1866)
プロイセンとの戦争に敗れ、オーストリアはドイツの盟主の地位を失い、以後ドイツ統一から外れることとなる。
- アウスグライヒ(二重帝国体制)の成立(1867)
ハンガリーと妥協し、二重帝国体制を導入。オーストリア帝国とハンガリー王国が1人の皇帝を共有する体制となった。
- 言語令をめぐる対立と混乱(1880〜1897)
スラヴ系民族の権利を拡大するために、地方で複数の公用語を認めたが、ドイツ系住民の強い反発を招き、内閣総辞職や暴動が発生した。
- ウィーン市の都市改造と文化開花(1857〜)
城壁を取り壊して環状道路を整備し、オペラ座や議会などの公共施設を建設。ウィーンは多民族文化が花開く都市へと成長した。
- 皇室の相次ぐ悲劇(1867〜1898)
弟マクシミリアンの銃殺、皇太子ルドルフの心中、皇后シシィの暗殺といった家族の悲劇に見舞われた。
(フランツ・ヨーゼフ1世の家系図)
- 第一次世界大戦の勃発(1914)
甥フランツ・フェルディナントの暗殺をきっかけに帝国はセルビアへ宣戦布告。第一次世界大戦が始まり、帝国の終わりが近づいた。
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