神聖ローマ帝国の終焉とフランツ2世の新しい玉座

その若者は、帝国の終わりを見据えていた。破滅の予感は、あまりにも静かに、しかし確実に足元を侵食していた。ナポレオンという嵐がヨーロッパを蹂躙する中、彼は恐れながらも剣を握った。

名はフランツ―最後の「神聖ローマ皇帝」。

フランツ2世(1792年) (1792年のフランツ2世)

そして最初の「オーストリア皇帝」である。

この記事のポイント
  • 1792年、神聖ローマ皇帝として若くして即位
  • ナポレオン登場により立場が揺れ、対抗としてオーストリア皇帝を名乗る
  • 神聖ローマ帝国の終焉を見届け、新たな多民族国家を築く

📖 フランツ2世の基本情報はこちら ▶

帝国の継承者として

フランツは1778年、レオポルト2世の長男としてイタリア・フィレンツェで生まれた。

父は、啓蒙時代の理想をかかげた穏やかな改革派であり、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の弟だった。ヨーゼフの死後、父レオポルトが皇帝となるが、その在位はわずか2年。

突然の死により、まだ18歳のフランツが皇帝となった。1792年、神聖ローマ帝国の「最後の世代」が静かに始まった。

ナポレオンの出現とゆれるヨーロッパ

The Coronation of Napoleon I and Empress Josephine by David (ダヴィッド画『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』)

即位からほどなくして現れたのが、ナポレオン・ボナパルトだった。

若きフランス将軍は、イタリア遠征でオーストリア軍を打ち破り、ヨーロッパの秩序を壊しはじめた。そして1804年、自ら「フランス皇帝」を名乗る。

ヨーロッパ史の常識では、「皇帝」は常に一人だった。

なぜなら皇帝とは、キリスト教世界における「地上の支配者」を意味し、王(king)とは違って、並び立つことが許されない、たった一人の存在だからである。

にもかかわらず、ナポレオンが皇帝を名乗ったことで、ふたりの「皇帝」が存在するという前代未聞の事態が生まれた。フランツは決断する。

自らもまた「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗ることで、威厳と立場を守ろうとしたのだ。

終わる帝国、始まる帝国

フランツ2世は、ナポレオンに帝位を奪われることを恐れた。

そこで1804年、それまで「ハプスブルク世襲領」と呼ばれていたオーストリアとその周辺の領地を「オーストリア帝国」と名づけ、自らをその初代皇帝――フランツ1世と定めたのである。

 (オーストリア皇帝フランツ1世)

2年後の1806年、神聖ローマ皇帝の座を正式に退いたとき、彼にはすでに「新たな帝国」と「新たな肩書き」が用意されていた。フランツは、ただ帝国を終わらせたのではない。

次の時代を、自らの手で築こうとしたのである。

「保守の皇帝」か、「近代化の始まり」か

父レーオポルトは、自由や改革を重んじた皇帝だった。だがフランツは、戦争と混乱の中で即位したこともあり、用心深く、改革には冷ややかだった。

ベルギーやハンガリーでは、民主主義を求めた人々がフランツに失望し、離れていった。秘密結社や反対派は取り締まられ、自由への希望は潰されていく。

一方で、フランツは国の形を整理し、飛び地を減らして、ザルツブルクやアドリア海沿岸などを手に入れ、中東欧に軸をおいた。

それは、いくつもの国をゆるくまとめていた「昔の帝国」から、一つの国としてまとまった「近代の国家」への第一歩だったとも言える。

ウィーン会議と晩年

ナポレオンの失脚後、ヨーロッパの国々は新しい秩序を作るため、ウィーンに集まった。

この「ウィーン会議」では、フランツは表には出なかったが、背後で全体を見守っていた。
オーストリアはベルギーを失ったが、チロル、ザルツブルク、イタリア北部などを手に入れ、新たな「多民族帝国」として生まれ変わった。

長い統治の末、フランツは1835年にこの世を去った。

神聖ローマ帝国の最後の皇帝であり、オーストリア帝国の最初の皇帝。そのふたつの肩書きこそが、彼の生きた時代と役割を象徴している。

まとめ

皇帝フランツ2世――神聖ローマの最後の冠を戴いた男は、終焉と再生の狭間に立ち尽くした。

かつては中世の亡霊と見なされながらも、帝国という名の古木を最後まで支え続けたその手は、やがてナポレオンの嵐の前に無力となる。

だがその手から次の世代へと、静かに渡されたものがある。国家の名は変わろうとも、「帝国」を名乗る者はまだ絶えない。

やがて、ひとりの若き皇帝がその意志を継ぎ、オーストリアの名のもと、再び「帝国」を掲げて立ち上がる。それはまだ遠い未来ではない。だが、その影は、すでにこの時代の終わりに――うっすらと射し始めていた。

さらに詳しく:

📖 皇帝ナポレオン|戴冠の皇帝と神聖ローマ帝国の終焉
📖 フェルディナント1世|吃音の皇帝と、沈黙で貫かれた13年
📖 フランツ・ヨーゼフ1世|ハプスブルク最後の栄光、その代償は


参考文献
  • Acta Pacis Westphalicae(1648年ヴェストファーレン条約文書群)

  • Kaiser Franz II. und das Ende des Heiligen Römischen Reiches(Stefan Zinell, 2015)

  • The Habsburg Monarchy 1809–1918(A.J.P. Taylor, Oxford University Press)

  • 『図説 ハプスブルク帝国』(河出書房新社)

・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

 

コメント