フランツ2世は、「神聖ローマ帝国」の最後の皇帝であり、オーストリア帝国の初代皇帝でもある。
ナポレオンとの戦争の中で神聖ローマ帝国は幕を閉じ、彼は新たに「オーストリア皇帝」と名乗って、ハプスブルク家の影響力を保とうとした。激動の時代にあって、彼の政治は保守的であったが、近代オーストリアの土台を築く役割も果たした。
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フランツ2世 | 帝国の終焉とオーストリア皇帝の誕生を読む ▶
基本情報
主な称号 | 神聖ローマ皇帝 (フランツ2世) |
オーストリア皇帝 (フランツ1世) | |
ハンガリー国王 | |
ボヘミア国王 | |
クロアチア国王 | |
スラヴォニア国王 | |
ガリツィア・ロドメリア国王 | |
ブルゴーニュ公 | |
出生 | 1768年2月12日(フィレンツェ) |
死去 | 1835年3月2日(ウィーン) |
享年 | 67 |
治世 | 1792年〜1806年(神聖ローマ皇帝) |
1804年〜1835年(オーストリア皇帝) | |
伴侶 |
エリーザベト・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルク
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マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
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マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ
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カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン
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子女 | ルドヴィカ・エリーザベト (夭逝) |
マリア・ルドヴィカ (ナポレオン1世の皇后)
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フェルディナント1世 | |
マリア・カロリーネ (夭逝) | |
カロリーネ・ルドヴィカ | |
マリア・レオポルディーネ (ブラジル皇帝ペドロ1世の皇后)
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マリア・クレメンティーネ | |
ヨーゼフ・フランツ・レオポルト (夭逝) | |
カロリーネ・フェルディナンデ | |
フランツ・カール・ヨーゼフ | |
マリア・アンナ | |
ヨハン・ネポムク | |
アマーリア・テレジア | |
父親 | レオポルト2世 |
母親 | マリア・ルドヴィカ・デ・ボルボーネ |
前任者 | レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝) |
後継者 |
フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)
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人物の背景
フランツ2世は、皇帝レオポルト2世の長男として生まれた。
わずか24歳で神聖ローマ皇帝に即位した彼は、革命フランスやナポレオンと対峙し、オーストリア帝国の新たなかたちを模索することになった。
1804年には自ら「オーストリア皇帝」となり、1806年には神聖ローマ帝国を解体。こうして歴史の表舞台は新たな時代へと移行していった。
治世で起きた主要な出来事
- 神聖ローマ皇帝に即位(1792)
若くして皇帝となり、革命フランスに対抗する連合を主導。
- オーストリア皇帝号を創設(1804)
ナポレオンの即位に対抗して「オーストリア皇帝」を名乗る。
- 神聖ローマ帝国の終焉(1806)
ナポレオンの圧力により帝位を返上。神聖ローマ帝国が正式に消滅。
- ナポレオンとの戦争と和平(1797〜1809)
複数の戦争に敗北し、娘マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせて一時の和平を得る。
- ウィーン会議を開催(1814〜1815)
ナポレオン敗北後のヨーロッパ再編を主導。メッテルニヒの外交で新秩序を構築。
- ウィーン体制の確立(1815〜1835)
保守政治を推進し、自由主義の弾圧と安定維持を目指す。
フランツ2世は、帝国の終わりと始まりの両方に立ち会った稀有な皇帝だった。彼の選択は時代によって評価が分かれるが、ヨーロッパ史の重要な転換点を刻んだことは間違いない。
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