フランツ・フェルディナント、その名を聞いて、すぐに顔を思い浮かべられる人は少ないかもしれない。
だが、彼の死が引き金となって第一次世界大戦が始まり、ひいてはハプスブルク帝国の崩壊へとつながったと聞けば、歴史の重みを感じずにはいられないだろう。
(フランツ・フェルディナント)
本記事では、「サラエボ事件」の犠牲者となったこの人物の実像に迫り、その死がなぜ「帝国の終焉」の序章となったのかに触れていこう。
この記事のポイント
- 1863年、フランツ・ヨーゼフの甥として生まれ、継承者の座につく
- 民族対立に悩む帝国で、セルビアを警戒しつつ改革を模索する
- 1914年サライェヴォで暗殺され、帝国崩壊と第一次世界大戦の扉を開く
フランツ・フェルディナント
彼が「皇位継承者」となった背景には、帝国を揺るがす悲劇があった。1889年、皇帝フランツ・ヨーゼフの一人息子である皇太子ルドルフが自殺し、その後継の座が空白となった。
(フランツの家系図)
さらに1896年には、次の継承者とされていたフランツ・フェルディナントの父「カール・ルートヴィヒ」が死去。こうしてフランツ・フェルディナントが、帝国の未来を担う存在として前面に押し出されることとなった。
継承者としての葛藤と評価
頑固で融通のきかない性格、宮廷内での不人気、貴賤結婚 (皇太子の身でありながら、伯爵令嬢と結婚)など、大公の人物像は、決して美しいものではなかった。
だが彼は、軍の近代化とバルカン諸国との平和外交を重視し、極端な武力行使には一貫して否定的だった。実際、バルカン戦争中も軍事介入に反対している。
彼が即位していれば、ハプスブルクは別の道を歩んでいたかもしれない。
連邦化構想は誇張されて伝えられがちだが、少なくとも現状維持に安住せず、帝国のあり方を模索していたのは確かである。
サラエボ事件
1914年6月28日、空は青く、風は静かだった。だがその静けさは、嵐の前の囁きにすぎなかった。
ハプスブルク帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーが、ボスニアの地に降り立った瞬間、歴史の歯車はきしみを上げて狂い始めたのである。
その日、二人を狙う暗殺者たちは、ただの若き理想主義者などではなかった。彼らの拳銃と爆弾は、老いた帝国を地響きと共に崩れさせるための導火線であった。
運命を変えた一発の銃声
大公夫妻がサライェヴォに到着したのは、朝の10時前。歓迎式典へ向かう車列の沿道には、「青年ボスニア」と呼ばれる独立過激派の若者7名が潜んでいた。
その一人が爆弾を投げたが命中せず。傷ついた側近を気遣いつつも、大公夫妻は式典を終えた。
だが運命は、ほんの小さな誤解で動く。見舞いのため進路を変更した車列が、誤って暗殺者ガヴリロ・プリンツィプの前で停車した。
彼は銃を構え、まずゾフィー、次いで大公を撃った。
(暗殺場面を描いた新聞の挿絵)
フランツ・フェルディナントは血の気の引いた顔で、隣に崩れ落ちた妻を抱きしめた。その姿は、どこまでも静かで、抗いがたい運命の中にあった。
その声が風に消えたのは、午前11時半頃だったという。
老帝の沈黙、そして開戦へ
この悲劇の知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフ老皇帝は、沈黙を保った。
甥との関係は冷えきっていたが、王朝の未来は、彼の死により決定的に傾いた。
大公は、帝国中枢において「戦争を避ける重し」の役割を果たしていた。彼が去ったことで、いわゆる軍事力による威信の回復を優先する強硬派、タカ派が主導権を握る。
彼らは、セルビアに報復することで帝国の威信を守ろうと決意した。証拠が乏しいまま、セルビアへの疑念だけが独り歩きしていった。
最後通牒、開戦は避けられなかったのか
7月23日、ハプスブルクはセルビアに対し、極めて厳しい最後通牒を突きつけた。実質的には、「国家の主権を放棄せよ」と言わんばかりの要求だった。
セルビアは多くの要求を呑んだが、ただ一点、「ハプスブルク側による国内捜査協力」だけは拒否した。
そのわずかな拒否をもって、ハプスブルクは7月28日、宣戦布告を行う。交渉の可能性は、最初から考慮されていなかったと見る向きもある。
夢遊病者ではなかった者たち
「列強は夢遊病者のように戦争へ突き進んだ」、この言葉はC・クラークによるものである。
しかし、ハプスブルクに関してだけは、明確な意図と段取りがあった。
フランツ・ヨーゼフ、ベルヒトルト(当時の共通外務大臣)、コンラート(軍参謀総長)。彼らはいずれも、セルビアを粉砕するために動いた。甥の死をただの偶発とはとらえなかったのだ。
これは、ドイツに強制された戦争ではない。ハプスブルクが、帝国の維持と威信の回復のため、自ら下した決断だった。
連邦化構想は誇張されて伝えられがちだが、少なくとも現状維持に安住せず、帝国のあり方を模索していたのは確かである。
まとめ
(サラエボ事件の図解)
サライェヴォでの一発の銃声が、世界の運命を変えた。しかし真の引き金を引いたのは、復讐を選び取ったハプスブルク自身だった。
フランツ・フェルディナントの死は偶然の悲劇ではない。老いた帝国が、自らの内なる緊張と矛盾を抱えきれずに爆発した、その象徴だったのだ。
彼が即位していたなら、ハプスブルク帝国はより慎重で穏健な道を歩んだ可能性もあった。しかしその道は閉ざされた。結果として、戦争は不可避となり、帝国は解体へと突き進んでいく。
その意味で、彼の死は「始まりの終わり」ではなく、「終わりの始まり」であった。
さらに詳しく:
📖 カール1世|ハプスブルク家最後の決断と亡命の道
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
参考文献
- 村上亮『20世紀のオーストリア・ハプスブルク家』(山川出版社)
- Christopher Clark, “The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914”
- Samuel R. Williamson Jr., “Austria-Hungary and the Origins of the First World War”
- Manfried Rauchensteiner, “Der Erste Weltkrieg und das Ende der Habsburgermonarchie”
- 伊藤隆司『ハプスブルク家と近代ヨーロッパ』(講談社学)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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