1914年6月、サラエボの銃声が世界を変えた。 オーストリア=ハンガリー帝国の「皇位継承者」でありながら、彼は未完の改革構想を抱いたまま、非業の死を遂げた。
第一次世界大戦を招いたその一発の銃弾の裏に、フランツ・フェルディナントという男の複雑な実像がある。
📖 人物エピソードはこちら!
サラエボ事件と「帝国の終焉」への序章を読む ▶
基本情報
称号 | エスターライヒ=エステ大公 |
称号候補 |
皇帝即位後は「フランツ2世」となる予定だった
|
出生 | 1863年12月18日(グラーツ) |
死去 | 1914年6月28日(サライェヴォ) |
享年 | 50 |
治世 |
オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者だが、継承前に逝去
|
伴侶 | ゾフィー・ホテク |
子女 | ゾフィー |
マクシミリアン | |
エルンスト | |
父親 | カール・ルートヴィヒ大公 |
母親 |
マリア・アンヌンツィアータ・デ・ボルボーネ=シチリア
|
前任者 | フランツ・ヨーゼフ |
後継者予定 |
人物の背景
(家系図)
フランツ・フェルディナントは、皇帝フランツ・ヨーゼフの甥として誕生した。1889年、皇太子ルドルフの自殺によって皇位継承順位が繰り上がり、1896年に正式な継承者となる。
ウィーンのベルヴェデーレ宮殿に私設官房を持ち、軍や官僚との独自ネットワーク「ベルヴェデーレ・サークル」を築いた。妻ゾフィー(伯爵令嬢)との貴賤結婚により宮廷で孤立するも、家族への深い愛情を貫いた。
性格は頑固で短気、民衆からの人気に乏しく、ツヴァイク曰く「人間的魅力を欠いた人物」。しかしその一方で、日本を訪問し友好を深めるなど、国際的な視野も持ち合わせていた。
生涯で起きた主要な出来事
- バルカン政策と平和外交
共通外務相ベルヒトルトと協調し、バルカンでの武力行使に慎重な姿勢を見せた。三帝協約的なロシア・ドイツ・オーストリア=ハンガリーの協調を模索し、外交面では現実的な安定を志向していた。
- 三重制構想と誤解
南スラヴ民族に自治権を与える「三重制構想 (オーストリア・ハンガリーに加え南スラヴを加える体制構想)」を有していたとされるが、ハンガリー抑制のための手段だった可能性が高い。連邦化の理想主義者というよりは、中央集権を志向する現実主義者であった。
- コンラートとの関係と軍改革
タカ派の参謀総長コンラートと表面的に協調するも、海軍重視の姿勢やセルビアへの戦争慎重論で対立もあった。
彼の暗殺がなければ、軍部のバランスは大きく変わっていた可能性がある。
- サラエボ事件と暗殺
1914年6月28日、サライェヴォで暗殺される。
事件後、オーストリア=ハンガリーはセルビアに最後通牒を突きつけ、拒否を口実に7月28日に開戦。フランツ・フェルディナントの死は、第一次世界大戦という未曾有の惨禍を引き起こす直接的契機となった。
コメント