フェルディナント2世は、神聖ローマ帝国皇帝であり、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王を兼ねた。
熱心なカトリック教徒であり、反宗教改革を推し進め、プロテスタント勢力に対する強硬な政策を実施した。その結果、1618年のプラハ窓外投擲事件を引き金として三十年戦争が勃発し、彼の治世は神聖ローマ帝国の激動の時代となった。
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基本情報
称号 | 神聖ローマ皇帝 |
オーストリア大公 | |
ハンガリー王 | |
ボヘミア王 | |
出生 | 1578年7月9日(グラーツ) |
死去 | 1637年2月15日(ウィーン) |
享年 | 58 |
治世 | 1619年 – 1637年(神聖ローマ皇帝) |
伴侶 | マリア・アンナ・フォン・バイエルン |
子女 | クリスティーヌ |
カール | |
ジョン=カール | |
フェルディナンド3世 | |
マリア・アンナ | |
ツェチーリア・レナータ | |
レオポルト・ヴィルヘルム | |
父親 | カール2世 |
母親 | マリア・フォン・バイエルン |
前任者 | マティアス |
後継者 | フェルディナント3世 |
人物の背景
フェルディナント2世は、シュタイアーマルク大公カール2世の息子として生まれた。幼少期からイエズス会の教育を受け、熱心なカトリック信者として育つ。
若き日にスペインを訪れ、カトリック的な統治理念を学び、それが彼の後の宗教政策に大きな影響を与えた。前任者であるマティアスに子がいなかったため、後継者として指名された。
(マティアスとの相関図・家系図)
マティアスの甥であり、既にオーストリア・ハプスブルク家の分家領を統治していたため、ハプスブルク家内での適任者とされ、帝位を継承することになった。
治世で起きた主要な出来事
- プラハ窓外投擲事件(1618年)
ボヘミアのプロテスタント貴族たちは、フェルディナント2世の宗教政策に反発し、王宮のカトリック官僚を窓から投げ落とした。これが三十年戦争の引き金となる
- 三十年戦争とカトリック勢力の強化
フェルディナント2世は神聖ローマ帝国軍を動員し、カトリック同盟の支援を受けてプロテスタント諸侯と戦った。特に1620年の「白山の戦い」では、ボヘミアのプロテスタント勢力を完全に制圧し、ボヘミア王国をカトリック国家として再編成した
- ヴァレンシュタインの登用と失脚
戦争の拡大に伴い、フェルディナント2世は有能な軍事指導者アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを登用。しかし、彼の急激な勢力拡大を危惧した皇帝は、1634年に彼を暗殺させる
- 皇帝権力の強化
フェルディナント2世は、1629年に「復旧勅令」を発布し、宗教改革以降プロテスタントが占領したカトリック教会の領地を取り戻す政策を推し進めた。しかし、これがさらなる戦争の激化を招いた
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