フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)

フェルディナント1世は、1835年に「オーストリア皇帝」として即位した人物である。(ちなみに、ハンガリー皇帝としてはフェルディナント5世)

幼い頃から病を抱えながらも、穏やかな人柄で人々に親しまれた。政治の実権はほとんど持たなかったが、激動の時代にあって皇帝としての役割を静かに果たした。

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基本情報

主な称号
オーストリア皇帝(フェルディナント1世)
ハンガリー王(フェルディナント5世)
ボヘミア国王
スアヴォニア国王
クロアチア国王
スアヴォニア国王
ガリツィア=ロドメリア国王
ロンバルド=ヴェネト国王
出生 1793年4月19日(ウィーン)
死去 1875年6月29日(プラハ)
享年 82
治世 1835年〜1848年(オーストリア皇帝)
伴侶 マリア・アンナ・フォン・ザクセン
子女 なし
父親
フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)
母親 マリア・テレジア・カロリーナ
前任者 オーストリア皇帝 フランツ1世
後継者 フランツ・ヨーゼフ1世(甥)

人物の背景

フェルディナント1世は、神聖ローマ皇帝フランツ2世の長男として生まれた。

幼少期から吃音やてんかんの発作に苦しみ、教育にも遅れが見られたため、まわりからは「皇帝にはふさわしくないのでは」と心配されていた。

しかし、ハプスブルク家の伝統である「長男が家督を継ぐ」という原則は変わらず、1835年、父の死を受けてオーストリア皇帝として即位することとなる。とはいえ、実際の政治は宰相メッテルニヒや皇族の顧問団が行っており、フェルディナントは形式的な存在にとどまった。

フランツ2世の子女たち (家系図)

それでも彼は、温厚な性格とまじめな姿勢から、市民たちに「善き皇帝フェルディナント」として親しまれた。多くを語ることはなかったが、誠実で優しい人柄は、混乱の多い時代にあって市民に安心感を与えていた。

治世で起きた主なできごと

  • 1835年、オーストリア皇帝として即位

フェルディナントは父フランツ1世の死去を受けて皇帝の座についた。しかし彼自身には政治的な判断力が乏しく、国政の実務はほとんどすべて宰相メッテルニヒと皇族の顧問団によって担われた。フェルディナントは式典や法令への署名といった儀礼的な役割に徹し、帝国の象徴として存在していた。

  • 「善き皇帝フェルディナント」として市民に親しまれる

フェルディナントは実権こそ持たなかったが、温厚でおだやかな人柄によって、特にウィーン市民からの信頼を集めていた。吃音のために言葉を発することが難しかったものの、不正を見抜く発言をするなど、誠実な姿勢が人々の心に残った。

  • 1848年、三月革命により退位

フランスの二月革命をきっかけに、ウィーンでも民衆による革命運動が勃発。

市民や学生が蜂起し、自由や憲法を求めて声を上げた。混乱の中でメッテルニヒは亡命し、帝国の中枢は大きく揺れ動く。皇帝フェルディナントは自ら政治を動かす力を持たず、周囲のすすめにより退位を決意する。

1848年12月、甥のフランツ・ヨーゼフ1世に帝位を譲り、正式に退位した。

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