フェルディナント1世|吃音の皇帝と、沈黙で貫かれた13年

言葉は、帝王にとって最大の武器である。

だが彼は、生まれながらにしてその武器を持たなかった。吃音に苦しみ、てんかんを抱え、帝国の頂に立ちながら、語ることを許されなかった男——フェルディナント1世 (ハンガリー王としてはフェルディナント5世)。

Kaiser Ferdinand I (フェルディナント1世) (フェルディナント1世)

彼の治世は静かだった。だがその沈黙の中に、ハプスブルク帝国の宿命が刻まれていた。

この記事のポイント
  • 1793年、フランツ2世の長男に誕生するが、吃音とてんかんを抱えていた
  • 「宰相メッテルニヒ」が実権を握り、皇帝として形式的な治世を続ける
  • 1848年革命で退位し、甥フランツ・ヨーゼフ1世が帝位を継承 

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「吃音の皇帝」

フェルディナント1世は、神聖ローマ皇帝フランツ2世の長男として1793年にウィーンで誕生した。だがこの王子には、神が与えた重い試練があった。

幼少期から吃音とてんかんに苦しみ、教育もままならず、繊細で臆病な性格だったという。周囲の教師たちは、彼に政治や軍事を教え込むよりも、祈りと自然の中での安らぎを与えようとした。

フランツ2世の子女たち (家系図) (家系図)

母マリア・テレジア・カロリーナは深い愛情を注いだが、父フランツ2世は後継者としての資質に疑念を抱いていた。

しかし、家系と血統を重んじるハプスブルク家において、長男相続の原則は揺るがなかった。やがて1835年、フェルディナントは父の死を受けて、「オーストリア皇帝」として即位する。

沈黙の治世

だがこの新皇帝に、政治を動かす力はなかった。

実権は宰相メッテルニヒと皇族によって構成された「秘密顧問会議」が握っていた。フェルディナントの役割は、法令に署名し、儀式に出席し、形式を保つことであった。

言葉に詰まりながら、笑顔を浮かべて民衆の前に立つその姿は、「善き皇帝フェルディナント」とウィーン市民に親しまれることとなる。

彼には名言とされる言葉がある。

「善き皇帝」と呼ばれた無力な優しさ

役人の不正を見抜いた際、「それが正しいというなら、自分の小屋に鋤をつけて畑を耕してみるがいい」と言ったという。つまり、「そんなバカなことを正しいというなら、お前自身がやってみろよ」という皮肉と正義感が込められた言葉だ。

発語に難があっても、誠実さと優しさが彼の言葉にはあった。

政治の実務は担わずとも、民衆の尊敬を集めたのは、彼の「無害であること」そのものが、激動の時代には貴重だったからかもしれない。

沈黙の帝が下す最後の決断

二月革命 (図解) (フランスで起きた二月革命 図解)

だが、時代は彼のような沈黙を許さなかった。

1848年、フランスの「二月革命」を皮切りに、ヨーロッパ各地で民衆蜂起が勃発。ウィーンでも学生や労働者が立ち上がり、自由と憲法を叫んだ。驚愕した宮廷。

逃亡するメッテルニヒ。皇帝フェルディナントは、ついに沈黙の殻を破り、事態に直面せざるをえなくなる。

だが彼にできたのは、ただ譲ることだけだった。自らの意志ではなく、甥である若きフランツ・ヨーゼフへの権力移譲。それは、ハプスブルク帝国の新たな時代の幕開けであり、同時に旧体制の静かな終焉を意味していた。

退位と晩年

1848年12月、フェルディナントは正式に退位する。

13年間の治世は、ほとんど言葉を発することなく終わった。彼はその後、ボヘミアのプラハに移り住み、政治からは完全に身を引いた。

晩年の彼は、散歩と音楽、庭いじりを好み、穏やかな老後を送ったという。時に宮廷に顔を見せることはあっても、政争には一切関わらなかった。

皮肉なことに、彼の在位期間は「もっとも平和な13年」と評されることもある。

決断を下すことのなかった皇帝が、むしろ帝国の安定を保ったという逆説。その姿に、ある種の近代君主像を重ねる歴史家もいる。

まとめ

フェルディナント1世は、語らなかった。語れなかった。

そして、それゆえに語られるべきことを多く残した皇帝である。彼の沈黙は、単なる障害の産物ではない。それは、制度に縛られた帝位、時代の転換点に立たされた王の葛藤そのものだった。

吃音の皇帝。その13年は、帝国の最も静かな季節であり、やがて嵐の到来を告げる前の、最後の安らぎでもあったのだ。

だがその沈黙の先に現れたのは、若きフランツ・ヨーゼフ1世。剣と法で帝国を立て直そうとするその姿は、まさに新時代の幕開けを象徴していた。

フェルディナントが言葉を呑み込んだのなら、フランツ・ヨーゼフは言葉と剣を振るった――帝国の運命は、再び動き出していた。

さらに詳しく:

📖 フランツ・ヨーゼフ1世|ハプスブルク最後の栄光、その代償は

参考文献
  • Pieter M. Judson, The Habsburg Empire: A New History, Harvard University Press, 2016.

  • Steven Beller, A Concise History of Austria, Cambridge University Press, 2006.

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