皇帝カール1世は、冷たい秋の空を見上げていた。
1918年11月11日――第一次世界大戦の敗北と共に、彼の「皇帝としての政治的関与」は終わりを迎えた。だがそれは、明確な「退位」ではなかった。(※)
彼は王冠を手放さなかったのだ。信仰と誇りを糧に、彼は最後の瞬間まで帝国の再生を信じていた。しかし、世界は彼に背を向けていた。
この記事のポイント
- オーストリア皇帝カール1世は、1918年に政治不関与を宣言した
- その後、サンジェルマン条約で帝国が法的に解体された
- 王政崩壊後、第一次共和国が発足し混乱の時代へ
ハプスブルク支配の終焉
650年近くにわたり中央ヨーロッパを支配してきたハプスブルク帝国は、第一次世界大戦を機に崩壊した。その政治的・法的支配が完全に終結したのだ。
1918年の帝国崩壊と1919年のサン=ジェルマン条約は、単なる戦後処理ではなく、王朝の血脈による支配という概念そのものに終止符を打つ契機となった。
カール1世と「曖昧な退位」
カール1世は敗戦の責任を負う形で、1918年11月にオーストリア皇帝としての「政治への関与の停止」を宣言する。しかしこれは、「退位」ではなかった。
彼は自らの帝位を神からの委託と信じ、その正当性を最後まで手放すことはなかったのである。
だが、その“あいまいな姿勢”が決定的な断絶を生む。翌12日には「オーストリア共和国」が宣言され、王政に復帰する余地は完全に閉ざされた。
国家は「帝国なき秩序」を模索しはじめる。
サン=ジェルマン条約と帝国の解体
(右側がサン・ジェルマン条約)
1919年9月、オーストリア共和国は連合国との間で「サン=ジェルマン条約」に署名する。これにより、ハプスブルク帝国の法的存在は完全に否定された。
領土は切り取られ、ドイツ語圏の「小国」オーストリアが誕生する。軍備の制限、「ドイツ=オーストリア共和国」という国名の使用禁止、さらにはドイツとの合邦禁止までもが規定されていた。
この条約により、ハプスブルク家は「復帰」の法的根拠を喪失し、財産は没収され、一族の国外追放も制度化された。ここに「王朝国家」としてのハプスブルク家は完全に終わった。
民主国家オーストリアの模索と苦悩
共和国の誕生は、「自由」と「平等」の理想の下に始まった。
だが、戦後の混乱、経済破綻、貴族層と労働者階級の対立は、国家の足元を揺るがした。社会民主党政権は労働者保護と社会改革を進めようとしたが、保守派と教会勢力は「反動」として激しく抵抗。
加えて、かつてハプスブルクが統合していた多民族帝国の「精神的空白」が、共和国のアイデンティティ形成を著しく困難にした。ウィーンを「かつての帝都」として見つめる視線が、常に過去との比較を呼び起こしたのである。
「オーストリア・ファシズム」と復位の幻影
1930年代、経済危機と共産主義の脅威の中、ファシズム (反共産主義・独裁・国家第一主義を掲げる政治思想) の影がオーストリアにも忍び寄る。
1934年にはドルフース首相が「オーストリア・ファシズム」体制を樹立。議会を停止し、「皇帝賛歌」の歌詞を改めて国家に採用するなど、あからさまな「復古主義」の演出が行われた。
この時期、ハプスブルク家のオットー大公は「正統な皇帝」として保守派から復位を期待された。だが彼は民主主義を重んじ、ファシズムへの加担を断固として拒絶。のちの亡命政権やEU支持活動へとつながる、倫理的選択を下したのである。
アンシュルスと「ハプスブルク法」の発効
(アンシュルスの図解)
1938年、ヒトラーの進軍によってオーストリアはナチス・ドイツに併合(アンシュルス)される。
このとき発動されたのが「ハプスブルク法」であった。すでに1919年に可決されていたこの法律は、ハプスブルク家の一族すべてに対し、「共和国への忠誠を誓わぬ限り、帰国を禁止する」という厳しい内容であった。
オットーはこの命令に抗い続けた。
亡命の地マドリードやアメリカで、彼は反ナチ活動と連合国への協力を続ける。ハプスブルク家はもはや国家の「権威」ではなく、「理念」や「抗議」の象徴となっていた。
再評価と「ヨーロッパ市民」オットー
戦後、ハプスブルク家は次第に再評価の対象となる。
冷戦下のヨーロッパで、オットーは「超国家的」な視点から統合の必要を説き、ヨーロッパ議会議員として活動。ウィーンでは1990年代に名誉市民となり、2007年にはついに「ハプスブルク法」も事実上の無効化が確認された。
2000年代のオーストリアは、もはや王制復活を望まぬ一方で、ハプスブルク家を「文化遺産」として受け入れる成熟へと移行した。
帝国は失われたが、その記憶はなお、国民の中に息づいている。
まとめ
ハプスブルク帝国の終焉は、単なる政体の崩壊ではなかった。
それは「血統による支配」と「信仰と忠誠」に基づく政治理念の死でもあった。カール1世は帝位を神からのものと信じ、オットーはそれを現代の倫理で再解釈した。
彼らの苦悩は、変わりゆく時代に抗い、信念を貫いた者の姿そのものである。
オーストリアは今や共和国として、かつての「帝国」の幻影と共存している。だが、ウィーンの石畳に響く靴音の底には、今もなお帝国の鼓動がかすかに残っているのかもしれない。
さらに詳しく
📖 巨大王朝ハプスブルク家の末裔は今 | 平和な帝国終焉、一族の現在
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
参考文献
- 「内容 史実との整合性 出典/裏付け 1918年11月、カール1世が「政治への関与の停止」を宣言したが退位はしなかった」 Karl I の「宣言文」原文(Österreichisches Staatsarchiv)により裏付け。明確な退位はしていない。
- 「1919年9月のサン=ジェルマン条約によりオーストリア共和国がハプスブルク帝国の法的後継国とされた」Treaty of Saint-Germain-en-Laye (1919) 条文および国際法文献による。
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馬場優『ハプスブルク帝国—最後の皇帝と民族の解放』東京大学出版会
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中野京子『ハプスブルク家の人びと』文藝春秋
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Brigitte Hamann, Hitler’s Vienna
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Treaty of Saint-Germain (1919), Austrian State Archives
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Österreichisches Staatsarchiv
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Otto von Habsburg, Memoirs
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World War I and II Documents Archive (Brigham Young University 提供)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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