皇妃エリザベート | 美と自由に溺れた人生の代償

その美しさは、祝福だったのか、それとも呪いだったのか。エリーザベト――愛称シシィ。バイエルンの自由な空気の中で育った一人の少女は、運命の悪戯でオーストリア皇帝の妃となる。

(Portrait of Sisi at age 15)
(15歳のシシィを描いた肖像画)

。だが彼女は、豪奢な宮廷の中で日ごとに心を病み、やがてウィーンから、そして「皇妃」という名からすら逃げていった。

この記事のポイント
  • 1837年、皇帝の一目惚れにより「皇后」という運命を背負った少女シシィ
  • 堅苦しい宮廷に疲れ、自由を求めて旅を続け、美と孤独に生き続ける
  • 1898年ジュネーヴで非業の死を遂げ、語り継がれる存在となる

政略結婚のなかに宿った「愛」

1837年、ミュンヘンに生まれたエリーザベトは、自然を愛し、詩を詠み、型にはまらない少女だった。

1853年、皇帝フランツ・ヨーゼフがゾフィー妃の妹ルドヴィカとその娘たちに見合いの席を設けたとき、主役は姉娘ヘレーネのはずだった。だが皇帝が心を奪われたのは、当時16歳の妹シシィ。

皇帝は母の意に逆らい、シシィを選んだ。それは彼の人生で数少ない「感情による決断」だった。だがこの愛は、彼女にとって果たして幸福だったのか。

宮廷という名の牢獄

Empress Elisabeth with her two children and a portrait of the late Archduchess Sophie Friederike (1858) (二人の子供とエリザベート)

オーストリア皇妃として迎えられたシシィを待っていたのは、厳格で冷たいウィーン宮廷の生活だった。姑ゾフィー妃との確執は早くから始まり、子どもの養育権すら奪われる日々。

皇帝フランツ・ヨーゼフは誠実であったが、戦争と政務に追われ、妻の苦悩に目を向けることができなかった。誰にも理解されぬ孤独のなかで、シシィは病み、そして逃げた。

療養の名のもとに訪れたマデイラ島を皮切りに、皇妃の長い旅が始まった。

旅という名の放浪

シシィは帰ってこなかった。

宮廷に縛られるより、船上で風に吹かれているほうが、彼女にとっての「生」だった。旅先で馬に乗り、詩を詠み、異国の空気を吸い込みながら、彼女は皇妃であることを忘れようとした。

だが逃げることで手にした自由は、同時に「責務からの放棄」という批判を招くことにもなった。

やがて彼女は、夫公認の愛人カタリーナ・シュラットの存在を知る。だが嫉妬ではなく、むしろ安堵を感じていたと言われている。

美の虜、美の囚人

シシィは異常なまでに「美」に執着した。

1日3時間のヘアケア、厳格なダイエット、徹底した運動。
若き日の美貌が人々の賞賛を浴びるたびに、彼女はその姿を“固定された自分”として縛られていった。

年を重ね、皺が刻まれゆくその顔を鏡で見つめながら、シシィはますます人前に姿を見せなくなった。美しさを保つことが、生きる理由になったとき、それはもはや自由ではなかった。

母としての喪失

The imperial family mourns the suicide of Crown Prince Rudolf (皇太子ルドルフの自殺を嘆き悲しむ皇帝一家)

1889年、メイヤーリンクで皇太子ルドルフが死亡した。

愛人マリー・ヴェッツェラとの心中とされるが、事件の真相は不明なままだ。彼が抱えていた政治的不満、父帝との確執、うつ的傾向──

そこに当時の宮廷の重圧が加われば、若き皇太子の精神が崩れていったのも無理はない。シシィは息子の死を「自らの罪」として引き受けた。

「わたしが母親として不在だったからか」

彼女は以後、黒の服以外を着ることはなくなり、生涯喪に服し続けた。愛する我が子を失った痛みは、旅でさえ癒せなかった。

むしろ、旅に逃げる理由を永遠に与えた。

ジュネーヴ、最後の自由

1898年9月10日、ジュネーヴのレマン湖畔。宿泊先を出たシシィは、従者とともに船着場に向かう途中、突然、無政府主義者ルイジ・ルキーニに胸を刺された。

鋭利なヤスリが心臓に達していたにもかかわらず、彼女は自分が刺されたことにすら気づかず、10分ほど歩き続けたという。

その姿は、まるで自由そのものを纏った幽霊のようだった。

ルキーニの狙いは誰でもよかったらしい。だが、その刃が彼女を選んだとき、シシィはついにこの世で最も不自由な「皇妃」という役目から解放された。

最後の瞬間すら、自ら選べなかった彼女にとって、皮肉にも「最も自由な死」だったのかもしれない。

イタリアのアナキスト、ルイジ・ルケーニによるエリザベートの刺殺を描いた芸術家の描写 (エリザベートの刺殺)

まとめ

シシィは、美に溺れたのではない。それは生きるための防壁であり、唯一の自己表現だった。彼女が鏡に執着したのは、自分が“誰なのか”を確かめるためだったのだ。

皇妃であることを拒みながら、皇妃としてしか存在を許されなかった女。母でありながら、息子に手を差し伸べることも叶わなかった女。

その人生は、光と影、美と死、愛と逃避の織りなす迷宮だった。

ハプスブルクという巨大な檻の中で、彼女は最後まで“自由”という夢を追い続けた。だがその夢の代償は、あまりに重かった。シシィが望んだ「自分らしい生」は、結局、生の終わりによってしか叶わなかったのである。

さらに詳しく:
📖 フランツ・フェルディナント|サラエボ事件と「帝国の終焉」への序章
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
📖 フランツ・ヨーゼフ1世|ハプスブルク最後の栄光、その代償は

参考文献
  • Brigitte Hamann『エリーザベト ― 皇妃になりたくなかったプリンセス』(Piper, 1992)

  • Jean-Paul Bled『Franz Joseph』(Fayard, 2008)

  • Alan Palmer『Twilight of the Habsburgs』(Grove Press, 1997)

  • Österreichisches Biographisches Lexikon

・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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