無敵艦隊の敗北|アルマダ海戦とスペイン帝国のほころび

1588年、天空に裂け目が生じたような夏の嵐が、大西洋の波濤とともに世界帝国の威信を呑み込んだ。その名は「無敵艦隊」。

だが、その帰還の姿は、まるで亡霊のようだった。最強と信じられた艦隊の敗北は、スペイン帝国の絶頂に現れた最初の亀裂であり、時代の転換点でもあった。

無敵艦隊の図解 (無敵艦隊の航路 図解)

この記事のポイント
  • 1588年、フェリペ2世の無敵艦隊がイングランド遠征を開始

  • 火船攻撃と嵐により、艦隊は北海から大西洋へ敗走する

  • 大半の艦船が失われ、スペイン帝国の威信が揺らぎ始める

「神の代理人」と「私生児の女王」

主役となるのは、フェリペ2世。彼は自らを「カトリックの守護者」と信じ、宗教戦争を政治の手段とすることを厭わなかった。

一方、イングランドのエリザベス1世は、父ヘンリー8世とアン・ブリンとの間に生まれたとされ、カトリック世界では正統な王位継承者とは認められていなかった。

海賊フランシス・ドレイクらがスペインの銀船を略奪し、エリザベスがそれを公認する。

この国家ぐるみの挑発に、フェリペの堪忍袋の緒が切れる。だが決定的だったのは、スコットランド女王メアリー・スチュアートの処刑。カトリックの象徴を斬首したこの事件が、フェリペを戦に駆り立てた。

神の加護を信じた男

1588年、フェリペ2世は130隻の大艦隊と3万人をリスボンに集結させ、イングランド制圧の大遠征を命じた。

司令官に任じられたのは海軍経験のないメディナ・シドニア公。だが彼の使命は明確だった。艦隊をドーヴァーに送り、パルマ公の率いるフランドル軍2万7000と合流させる――

それが「無敵艦隊」の勝利の青写真だった。

だが風は読めなかった。オランダ海軍が海峡を塞ぎ、潮流と逆風がスペイン艦隊の動きを鈍らせた。パルマ公の軍は海へ出ることすら叶わず、艦隊はカレー沖で立ち往生する。

火船の夜と敗走の旅

そして8月8日、決定的な出来事が起きる。

イングランド側が火薬を積んだ船に火を放ち、無人の火船を夜陰に紛れてスペイン艦隊へ突入させたのだ。密集していた艦船は混乱し、錨を切り、海上に四散。

この「火船戦術」は戦術というより心理戦だった。

無敵艦隊の敗北 (無敵艦隊の敗北)

もはや海峡を戻ることは不可能。艦隊は北海を大回りして帰還するしか道がなかった。だが、それは“神の試練”というにはあまりに苛烈であった。

スコットランド沖から北大西洋へ――次々と襲う暴風雨、飢え、病。アイルランドの岩礁で砕け散った船、難破しても村人に襲われる兵士たち。

帰還できたのはおよそ半分の65隻、乗員1万5000。うち半数以上は衰弱し、錨すら降ろせぬまま、幽霊船のごとく太平洋に沈んだ。

「無敵」とは誰の幻想だったのか

衝突事故や爆発事故を含めてのことで、実際に、戦闘で失ったのは6隻であった――と数字で言えばそうなる。

だが、真に恐るべきは暴風雨ではなく、戦略の破綻であり、「神の名のもとに動いた国家の傲慢」であった。イングランドが完全勝利したとするのは誇張だろう。

しかしこの敗北がスペイン帝国に与えた打撃は、単なる軍事的損失にとどまらなかった。「無敵」と呼ばれた艦隊が、そうではなかったこと。

帝国の足元に、確かにほころびが生じたのだ。

その後もスペインは巨大な帝国であり続けたが、ヨーロッパの覇権は少しずつ別の手へと移ってゆく。大海原を覆っていたはずのその影は、もはや霞のごとく揺らいでいた。

まとめ

無敵艦隊の敗北は、単なる作戦の失敗や天候の不運ではない。それは、帝国の膨張にひそむ無理を炙り出し、絶対的と信じられていたスペインの威信に初めて深いひびを刻んだ歴史的事件である。

艦隊は帰還した。

だが、その姿はもはや帝国の栄光を映すものではなかった。破れた帆、空っぽの倉庫、そして物言わぬ兵士たち――

それは、世界を制していたはずのスペインの未来を静かに暗示していた。この敗北をきっかけに、スペイン帝国の黄金時代にはゆるやかな陰りがさしこむ。

その終わりはすぐには来ない。だが、すべての栄光の背後には、こうして見えぬ綻びが忍び寄っていたのである。

さらに詳しく:
📖 フェリペ2世 | 冷酷なる信仰の守護者、その孤独な帝王像
📖 イングランド女王とフェリペ2世の対決|宗教戦争とアルマダの敗北

参考文献
  • 山本秀行『海の覇者イギリス──アルマダ海戦からトラファルガーへ』講談社学術文庫、2005年

  • 井上廣美『図説 イギリスの歴史』河出書房新社、2001年

  • Susan Doran, Elizabeth I and Her Circle, Oxford University Press, 2015
  • Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II, Yale University Press, 1998
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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