1918年秋、ハプスブルク帝国は瓦解した。
だが、その死は静かであったがゆえに、人々は忘れていた。真に過酷だったのは、解体された後の「後始末」。
誰が何を引き継ぐのか。土地、軍人、債務、芸術品、そして、公文書。帝国が姿を消しても、「国家の骨格」はまだそこに残っていたのである。
帝国の清算
1867年のアウスグライヒにより、ハプスブルク帝国はオーストリアとハンガリーの「二重帝国」となった。外交・軍事・共通財政は協調するが、内政は別。
帝国の末期、民族ごとの独立が相次ぎ、帝国は形式上も実体上も解体された。しかし、「解体」とは終わりではなかった。
遺された文書・債務・美術品といった遺産の分配をめぐって、新たな国家群は複雑な交渉に突入する。
ウィーンで始まった代表者会議
1918年11月14日、ウィーンにて「代表者会議」が開催された。
参加したのは、ドイツ・オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ウクライナ=ガリチア、ルーマニアなど旧帝国領を継ぐ国家たちであった。
彼らは、3つの共通官庁(外交、軍事、財政)とオーストリアの中央行政組織に属する財産・人材・債務などを「どう分けるか」という問題に取り組んだ。
帝国の残した巨大な記録群、それを誰がどう扱うのかも、争点となった。
公文書は誰のものか
帝国の残した文書は、外交交渉、領地の授与、司法記録など多岐にわたる。特に重要だったのは「出所原則」、文書はそれを作成・保管した組織単位で管理すべきという考え方である。
オーストリアは、無関係な地域の文書も、出所原則に従い自国で保管する姿勢をとった。
一方で、他の新国家は、「自国の正統性を証明する文書は当然返還されるべき」と主張した。
芸術品と文化財のゆくえ
文書と並んで問題になったのが、美術品の帰属である。
ハプスブルク家が収集してきた絵画や彫刻は、帝国各地から集められたものであり、その多くがウィーンに所蔵されていた。
新国家はこれらを「返還すべき文化財」として要求したが、オーストリアは流出を極力防ごうとした。こうして、「芸術の帰属」もまた、戦後処理の争点となった。
二国間交渉へ、そして未解決の問題
1919年末、「代表者会議」は終了し、以後は個別の国とオーストリアとの二国間交渉へ移行した。1920年にチェコスロヴァキアと文書返還協定が結ばれ、その後、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ポーランドとも類似の協定が締結された。
だが、全てが整理されたわけではない。とりわけ問題となったのが、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの文書である。
これは1942年にナチス・ドイツによってウィーンに戻されたが、戦後サラエボに移送され、現在も返還されていない。
まとめ
戦争の終結は、すなわち秩序の回復を意味しない。ハプスブルク帝国という巨大な国家が崩壊したとき、そこに遺されたもの、制度、文書、文化財は「遺産」となり、各国の正統性をめぐる静かな戦いが始まった。
それは、目に見える戦火が消えたあとも、長くくすぶり続けたもうひとつの戦争——「見えない戦争」であった。
参考文献
- 馬場優『ハプスブルク帝国—最後の皇帝と民族の解放』東京大学出版会
- 中野京子『ハプスブルク家の人びと』文藝春秋
- Österreichisches Staatsarchiv(オーストリア国立公文書館)
- Hungarian National Archives
- Treaty of Saint-Germain (1919)
- World War I Document Archive(Brigham Young University 提供)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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