帝国が揺れていた。宗教という名の火種が、聖職者の裾を焼き、民の心を裂き、皇帝の冠を焦がす。
戦火の気配が神聖ローマ帝国全土に漂う中、ただ一人、静かに、しかし粘り強く火をくべる者がいた――フェルディナント1世である。兄カール5世が夢見た宗教統一は、もはや理想でしかなかった。
帝国の延命には、現実に目を向けるしかなかったのだ。
この記事のポイント
- カール5世が宗教対立を武力で抑えようとし、帝国内の混乱が深まった
- 戦争の拡大を防ぐため、フェルディナント1世が「アウクスブルクの和議」を成立
- しかし、カルヴァン派の排除や宗教対立の火種が残り、帝国はさらなる分裂へ向かった
カール5世の武力政策と宗教対立の激化
宗教改革によってルター派が広まり、帝国内部は急速に分裂していった。
皇帝カール5世はこれを抑えようと、1546年にプロテスタントの諸侯を軍事力で制圧しようとする(シュマルカルデン戦争)。だが、事態は思うようには進まない。
勝利は一時的なものにすぎず、広がる宗教の熱は止められなかった。反発する諸侯、動揺する民衆、そしてヨーロッパ全体の緊張感。
宗派対立はすでに、個人の信仰の問題ではなく、国家と秩序の根幹に関わる政治問題へと変貌していた。
宗教と政治の狭間で――フェルディナントの選択
兄に代わり帝国の中枢を託されたフェルディナント1世は、この難題に現実的な解決を見出そうとする。彼は、帝国議会を主導し、1555年に「アウクスブルクの和議」を成立させる。
この和議の中心は、「領主の宗教が領民の宗教」という原則である。つまり、各領邦の支配者が、自領内の宗教(カトリックかルター派)を決められるという妥協策だった。
この制度は、一見すると寛容な解決のように見える。しかし実態は「カトリック vs ルター派」の二者択一であり、台頭していたカルヴァン派などは排除された。
妥協の裏側には、新たな対立の芽が残されたままだった。
オーストリアにおける宗教政策と二重構造
帝国では妥協を選んだフェルディナントだったが、自身の領土、特にオーストリアにおいては異なる方針をとった。すなわち、「再カトリック化」である。
オーストリアではすでに人口の9割がルター派に傾いていたとされる中、彼は節度を持ちつつもイエズス会を招き、カトリックの再教育を進めた。
だが一方で、帝国は依然としてオスマン帝国の脅威にさらされており、フェルディナントもまた強硬な宗教政策を全面に押し出す余裕はなかった。結果として再カトリック化は思うようには進まず、緩やかな努力にとどまることとなった。
まとめ
アウクスブルクの和議は、神聖ローマ帝国にとって理想の勝利ではなく、崩壊を先送りするための現実的な妥協であった。
「領主の宗教が領民の宗教」という原則は、宗教的多様性を許容するようでいて、逆に新たな排除を生み、帝国の分裂を制度として固定する結果にもなった。
フェルディナント1世は、兄カール5世の掲げた宗教統一という理想を引き継ぐことはなかったが、帝国という巨大な組織を壊さずに持ちこたえさせた。しかし、彼が選んだのは、永続的な解決ではなく、時間を稼ぎながら帝国をつなぎとめるという、限界ある均衡であった。
さらに詳しく:
📖 カール5世|太陽の沈まぬ帝国、その重さと孤独
📖 フェルディナント1世 | オーストリア・ハプスブルク家の礎を築いた皇帝
📖 マクシミリアン2世とは | 宗教戦争前夜の迷える皇帝
参考文献
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岩崎周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書)
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アウクスブルク和議(1555年)一次史料
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ティロール反乱関連史料、イエズス会書簡集(16世紀)
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ハプスブルク王権と選挙王制に関する国際学会報告書(原語:独)
- German History in Documents and Images(GHDI)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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