フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)

フェルディナント1世は、16世紀、ハプスブルク家の皇帝として神聖ローマ帝国を統治し、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアの君主としても名を残した。

基本情報

主な称号 神聖ローマ皇帝
オーストリア大公
ローマ王 (ドイツ王)
ハンガリー王
ボヘミア王
出生
1503年3月10日(アルカラ・デ・エナーレス)
死去 1564年7月25日(ウィーン)
享年 61
治世 1556年〜1564年 (神聖ローマ皇帝)
1521年〜1564年 (オーストリア大公)
1526年〜1564年 (ハンガリー王・ボヘミア王)
伴侶 アンナ・ヤギェロ
子女 マクシミリアン2世(後継者)
アンナ・フォン・エスターライヒ
ヨハン・フォン・エスターライヒ
父親 フィリップ美公
母親
フアナ・デ・カスティーリャ(狂女フアナ)
前任者 カール5世(神聖ローマ皇帝)
後継者 マクシミリアン2世

人物の背景

フェルディナント1世は、ハプスブルク家の一員としてブリュージュで生まれた 。

兄カール5世が広大な帝国を治める中、彼はオーストリア・ボヘミア・ハンガリーの統治を任された。1526年、モハーチの戦いでラヨシュ2世が戦死すると、彼はハンガリーとボヘミアの王位を継承し、オスマン帝国との戦いに直面することとなる。

Family tree of Charles I and Ferdinand I (妃がハンガリー王家の出身であった)

治世で起きた主要な出来事

  • オスマン帝国との対立(1526年〜1564年)
    スレイマン1世率いるオスマン帝国との戦争が続き、ハンガリーの一部を失うも、最終的に和睦を成立させた。
  • アウクスブルクの和議(1555年)
    兄カール5世から皇帝位を引き継ぐ過程で、プロテスタントとの妥協を図り、アウクスブルクの和議を成立させる。これにより、各領邦がカトリックかルター派を選択できるようになった。
  • ハプスブルク家の分割統治(1556年)
    カール5世の退位に伴い、スペインをフェリペ2世が継ぎ、神聖ローマ帝国とオーストリア領はフェルディナントが統治する形となる。ハプスブルク家は以降、「オーストリア系」と「スペイン系」に分かれることとなった。

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