マルガリータ・テレサ|ハプスブルクの血に縛られた少女の肖像

画家は彼女を描いた。

王と王妃は、鏡の中にぼんやりと映り込むだけ。画面の中心に立つのは、たった五歳の王女──マルガリータ・テレサ。宮廷画家ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』。

ラス・メニーナス、フェリペ4世の娘マルガリータ・テレサ (ディエゴ・ベラスケス画)

この絵は、単なる王家の肖像ではなかった。 構図、視線、鏡──そのすべてが意味を持ち、見る者に「予告された未来」を語りかけてくる。

この記事では、『ラス・メニーナス』に込められた王位継承の象徴と、マルガリータ・テレサという少女が背負わされた宿命を、歴史的背景とともに読み解いていく。

この記事のポイント
  • 1656年、王女マルガリータが絵画の中心に据えられる
  • この時、父王フェリペ4世には男児がおらず、彼女が王位を継ぐことも考えられた
  • しかしその後カルロス2世の誕生により、彼女はオーストリアの叔父の元へと嫁ぐことになった

王と画家の蜜月 ──美の守護者としての“無能王”

スペイン王フェリペ4世は、「無能王」として歴史に名を残した。だが芸術に対する審美眼は卓越しており、王室の美術コレクションを黄金期に導いた功労者でもある。

その最たる証が、若き画家ディエゴ・ベラスケスを宮廷画家として抜擢したことだった。

24歳で初めて王の肖像を描いたベラスケスは、その高い写実力と色彩感覚によってフェリペ4世の信頼を一身に集め、以後40年にわたって宮廷芸術の中心に立ち続けることになる。

フェリペ4世は、ベラスケスの描く自身の肖像画を他の画家の作品よりも高く評価し、王宮から他の画家の作品を排除させたほどだ。こうして築かれた“王と画家の蜜月”は、『ラス・メニーナス』という謎に満ちた傑作を生み出す土壌となった。

『ラス・メニーナス』と王位継承の暗示

1656年に描かれた『ラス・メニーナス』。

そこには、当時のスペイン王フェリペ4世とその王妃マリアナ、そして中央には王女マルガリータ・テレサの姿が描かれている。

ラス・メニーナス (ラス・メニーナス)

だが、王と王妃は画面の奥、鏡の中の存在に過ぎず、真正面から鑑賞者と対峙するのは、王女と彼女を取り囲む侍女たちである。

──なぜ彼女が中心なのか。当時、フェリペ4世には男児がいなかった。王位継承の希望は、ただひとり、マルガリータに託されていたのだ。

この絵は、国民と宮廷に向けて発せられた「未来の女王を迎える覚悟」を象徴する、視覚による宣言だった可能性がある。

女王承認の予告絵画 ──“中心”に立つ理由

マルガリータが画面の中心に立つ意味は、単なる構図上の演出ではない。

この絵が描かれた当時、フェリペ4世の長男バルタザール・カルロスは既に若くして世を去り、再婚後も男子に恵まれていなかった。唯一残されたのは、幼い「マルガリータ王女」だった。

しかも、最初の妻との間に生まれた長女マリア・テレサは既にフランス王ルイ14世への嫁入りが決まっており、スペイン王位の継承資格からは外れていた。

よってこの『ラス・メニーナス』は、五歳の王女を“次期女王”として示すための視覚的な布告──いわば「女王承認の予告絵画」だったと解釈する説が根強い。

マルガリータと近親婚の宿命

マルガリータの母マリアナは、父フェリペ4世の姪である。つまりマルガリータは、叔父と姪の間に生まれた子であり、すでに数代にわたって重なった近親婚の末裔だった。

実際、ハプスブルク家では代々、従妹婚や叔姪婚が繰り返されてきた。カルロス1世は従妹と、フェリペ2世は姪と、フェリペ3世は従兄の娘と──そしてフェリペ4世も姪を娶った。

こうした婚姻は「血の純潔」を守るためとされたが、その代償は重かった。死産、先天性疾患、乳幼児の高い死亡率──

マルガリータの兄弟姉妹のほとんどが夭折し、残されたのは彼女ひとりだった。

少女の死と、断絶の序章

『ラス・メニーナス』が描かれたとき、マルガリータは王位継承者としての希望を背負っていた。

だが1666年、15歳で神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚。複数の子をもうけるも、そのほとんどが夭逝し、彼女自身も1673年、21歳の若さで産褥死した。

(皇后マルガリータ・テレサと娘マリア・アントニア)

唯一生き残った娘マリア・アントニアも、やはり病弱で、王家の血はついに次の代で尽きる。

彼女の弟カルロス2世は、極端な近親婚による深刻な障害を抱えて生まれ、子を残すことなく死去。1700年、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。

まとめ

マルガリータ・テレサを描いたこの絵は、ただの肖像画ではなかった。少女を未来の女王として中央に据えた構図、画家の視線、鏡の奥に追いやられた王と王妃──すべてが、王朝の命運を内包した視覚的なメッセージである。

その中心にいた少女は、結局王位に就くことなく若くして命を落とし、次世代もまた病に倒れた。そして、あたかも『ラス・メニーナス』が運命を映し出していたかのように、王朝そのものも幕を下ろす。

この絵が私たちに語りかけてくるのは、ただの美ではない。美の裏に隠された政治と血統、希望と喪失、そして終焉の物語である。

参考文献
  • Alvarez, G., et al. (2009). “The Role of Inbreeding in the Extinction of a European Royal Dynasty.” PLoS ONE, 4(4), e5174.
  • 中野京子『ハプスブルク家 12の物語』光文社
  • López-Cordón, M.V. (1994). “Women in the Spanish Monarchy: Isabel I and the Question of Succession.” Journal of Iberian Studies, 7(2), 185-204.
  • Official Prado Museum Archives: https://www.museodelprado.es/en
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

 

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