ヨーロッパの歴史に登場する「神聖ローマ帝国」。
その名はあまりにも壮大で、まるでファンタジーの世界のように響く。だが、この帝国は実在した。そして、世界史の教科書にちらりと登場するだけでは、到底その複雑さも、壮麗さも、矛盾も伝わらない。
(神聖ローマ帝国とハプスブルク家の関係を図解)
「神聖」にして「ローマ」でありながら、「帝国」としての力はいつもどこか頼りない。一体これは、どういう存在だったのか。
この記事のポイント
- 962年、オットー1世が即位し「帝国=普遍国家」の理念が再生する
- 帝国はキリスト教世界に普遍的秩序をもたらす使命を担う
- しかし諸侯の台頭により分裂し、小国家群へと変貌、1806年には終焉を迎えた
ローマの後継者を名乗った帝国
物語は、カール大帝(シャルルマーニュ)から始まる。
800年、彼はローマ教皇から戴冠を受け、「ローマ皇帝」の称号を手にした。だがそれは古代ローマの復活ではなく、キリスト教世界における新たな「理想の帝国」の誕生だった。
やがてこの大帝国は分裂し、そのうちの一つ、東フランク王国(のちのドイツ)を母体に、神聖ローマ帝国が生まれる。
神聖ローマ帝国の誕生と使命
962年、東フランク王オットー1世がローマで教皇から皇帝の冠を授かり、神聖ローマ帝国が成立した。ただし「神聖ローマ帝国」という呼称が定着するのは、13世紀以降のことである。
当時「帝国」といえば古代ローマを指した。
その正統な後継者を名乗ることは、単なる王国とは違う、“神の秩序を守る存在”になることを意味していた。
後継となった”国”
中世ヨーロッパでは『四世界帝国論』という思想が広まっていた。世界にはアッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマという四つの帝国が交代して現れ、最後の帝国が滅びれば世界も終わると信じられていた。
だが西ローマ帝国が476年に滅びても終末は訪れなかった。それはフランク帝国、そして神聖ローマ帝国が「ローマの後継者」と見なされたからである。
神聖ローマ帝国は、ただの王国ではない。キリスト教世界に秩序をもたらす“聖なる帝国”としての使命を担っていたのだ。
皇帝はいた、だが命令できなかった
一般的に「皇帝」と聞けば、絶対的な権力者を思い浮かべるだろう。だが神聖ローマ帝国の皇帝には、そうした力がなかった。
なぜなら、この帝国は一つのまとまった国家ではなかったからである。その中にはドイツ諸侯、教会領、都市、騎士領、果ては外国のようなボヘミア王国まで――
数百の「小国」がひしめいていた。
それぞれの領主が自分の土地を治め、皇帝の命令よりも自分の利益を優先した。皇帝が即位するにも、彼らの「選挙」が必要だったのだ。
(皇帝の地位 図解)
つまりこの帝国とは、「皇帝をいただく、領主たちの連合体」に近い。
ハプスブルク家の台頭と、結婚で得た帝国
そんな中、皇帝の座をほぼ独占したのが、ハプスブルク家だった。
13世紀のルドルフ1世を皮切りに、彼らは約650年にわたりヨーロッパの中心に君臨する。そしてハプスブルク家が用いた最大の武器は「戦争」ではなく、「結婚」だった。
マクシミリアン1世が、ブルゴーニュの相続人マリーと結婚したことで、帝国の命運は大きく変わる。
その子フィリップはスペイン王女と結ばれ、孫のカール5世は、ドイツ、スペイン、イタリア、そして新大陸にまでまたがる、「太陽の沈まぬ帝国」の皇帝となった。
これはもはや、神聖ローマ帝国の枠に収まる話ではない。帝国は、ハプスブルク家の王朝政治の“舞台”として利用されていった。
帝国の「神聖さ」と「形だけの権威」
宗教改革の波が帝国を揺るがす。1517年、ルターが登場すると、諸侯たちはカトリックとプロテスタントに分かれて争いは激化した。
1555年の「アウクスブルクの宗教和議」では、「支配者の宗教がその地の宗教となる」という妥協がなされた。皇帝が全土を一つにまとめることなど、もはや不可能だったのである。
そして1618年には、帝国を巻き込んだ大惨事「三十年戦争」が勃発する。宗教、領土、王位継承、あらゆる利害が絡み合い、帝国の荒廃は極まった。
その後も形だけは存続し続けたが、帝国はもはや「名前だけ」の存在になっていた。
ナポレオンによって葬られた帝国
1806年、ついに終わりが来る。
ナポレオンがライン同盟を結成し、ドイツの諸邦を事実上自分の支配下に置いたことで、皇帝フランツ2世は、「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄せざるをえなかった。
これにて、「神聖ローマ帝国」は名実ともに消滅する。
だがフランツはあきらめなかった。直前の1804年、彼は自らを「オーストリア皇帝フランツ1世」と名乗った。しかし、その帝国も、時代の流れとともに瓦解し、1918年には終焉を迎えるのであった。
まとめ
神聖ローマ帝国は、「国家」ではなかった。
だがそこには、異なる文化、民族、信仰が共存し、「帝国」という理想の形が模索されていた。
その理想は、力で押さえつけるのではなく、ゆるやかな結びつきによる「共存」だったとも言える。現代のヨーロッパ統合の夢に、どこか通じるものがあると感じるのは、あやしい感傷だろうか。
そして、その長く奇妙な歴史の中心に、ハプスブルク家が常にいたことも――忘れてはならない。
霧の奥から、ぼんやりと浮かび上がる帝冠。この“帝国”の起源を知らずして、ハプスブルクを語ることはできない。
さらにくわしく:
📖 図解ハプスブルク|年表でみる王朝の盛衰
📖 5分で読めるハプスブルク家の歴史|図で学ぶヨーロッパ最大の王朝
📖 ハプスブルク家ってなに?初心者のためのQ&A10選
参考文献
- 中野京子『ハプスブルク家の人びと』文藝春秋
- カール・ツオイマー『ドイツ国民の神聖ローマ帝国—帝国称号についての研究』
- Treaty of Pressburg (1805), Imperial Act of Abdication (1806)
- Österreichisches Staatsarchiv(オーストリア国立公文書館)
- World War I Document Archive(Brigham Young University 提供)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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